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2022年3月19日(土) 一場神父様からの《四旬節黙想のために》の皆様へのメッセージ

Updated: Mar 19, 2022

2022年3月19日(土) 一場神父様からの《四旬節黙想のために》の皆様へのメッセージ


一場神父から「《四旬節黙想のために》の皆様へのメッセージと講話原稿」を受領しました。講話の動画配信は3月21日(月)13時とのことです。講話原稿は、下記に引用しておきました。


◆ ◆ ◆

関係の皆様


いつもいろいろとありがとうございます。


皆様の四旬節黙想の一助として、「愛をともに生きるために」という講話をお届けすることに致しました。よろしければ、ご活用ください。講話の動画は、21日(月)午後1時に配信予定です。


下記のアドレスからタイトルを選んでご覧ください。


よろしくお願い致します。皆様のために、いつもお祈りしています。一場


◆ ◆ ◆

【講話原稿】


《四旬節黙想のために》

〜愛をともに生きるために〜


四旬節は、洗礼の恵みを深める時です。


洗礼を受ける時、私たちは、神のいのちをいただきます。神のいのちである聖霊をいただきます。神のいのちとは、神に愛されて生きることです。神に愛されて、まわりの人と、まわりのいのちとともに生きていくことです。神の愛に応えて、愛を生きていくことです。洗礼によって、私たちは、この「いのち」、この「生きること」、「ともに生きること」という恵みをいただきました。


恵みは、私たちに喜びをもたらします。恵みは、喜びです。ですから、「洗礼」は、「神に愛されて、ともに生きる喜び」です。


私たちは、生きたいと望んでいます。神の愛に応えて、生きたいと望んでいます。「ともに喜びをもって生きる」ことを、心から望んでいます。神は、この望みに応えてくださいました。


福音記者ヨハネは、証言しています。「神は、その独り子をお与えなったほどに、世を愛された。


独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。


この証言こそ、「福音」です。神の独り子、イエス・キリストは、私たちの福音です。


主イエスは、私たちが、神に愛されていることを示してくださいます。言葉で、愛の行いで、十字架上の死で、そして、今も、これからも、私たちのために生きてくださることで。私たちとともに生きてくださることで。さらに、主イエスは、私たちに示してくださいます。私たちが、神の愛に応えて、互いに愛し合えることを示してくださいます。主イエスが愛されるように、私たちも愛することができる。まわりの人を、まわりのいのちを愛することができる。昨日まで愛せなかったけど、今日から愛せる。今は愛せないけど、いつか、きっと愛せる。愛せない悲しみは、いつかきっと、愛せる喜びに変わる。愛を生き続けることが、永遠のいのちだ。そんな福音を私たちと、分かち合ってくださいます。


洗礼は、信仰の恵みです。神のいのちを信じる恵みです。神が私たちを愛しておられることを信じる恵みです。私たちが愛せること、愛し合えることを信じる恵みです。愛を信じる恵み、愛を信じる喜びです。愛は、信じることから始まります。私たちは、愛されていることを体験する時、その愛を信じているはずです。愛は証明できることではありません。愛を数字で示すことはできません。


愛をランク付けすることもできません。愛は、信じることなのです。自分を愛してくださる神を、自分を愛してくれる人を信じることなのです。そして、自分も、神を愛せる、まわりの人を愛せる、まわりのいのちを愛せると信じることなのです。


愛には、これで終わりという到達点はありません。そして、愛には、必ず、挫折や失敗、後悔が伴います。聖書を読むとわかりますが、神ご自身が、この体験をされています。聖書は、救いの歴史を伝えていますが、それと同時に、神の愛の、挫折、失敗、後悔の歴史でもあると言えます。


しかし、愛は、再生、復活の歩みでもあります。


「愛する」とは、「愛するために、もう一度、立ち上がる」ことであると言えます。神の愛、まわりの人の愛に支えられて、何度も、何度も立ち上がることだと言えます。


そして、何度も立ち上がりながら、愛は深まり、広がっていくのではないでしょうか。


今まで愛せなかった人を愛せるようになるのではないでしょうか。


今までと違う愛し方ができるようになるのではないでしょうか。


「生きる」とは、愛を、日々、深め、広げていくことだと言えます。「ともに生きる」とは、この終わりのない愛を、まわりの人とともに生きていくことだと言えます。


教会は、神に愛されて、愛を生きる人々のことです。教会は、主イエスに招かれて、主イエスとともに、終わりのない愛を生きている人々のことです。主イエスに愛されて、主の愛に応えたいと望んでいる私たちです。愛したいけど、愛せないと もがいている私たちです。愛することに失敗して、悲しみに沈んでいる私たちです。愛せた時、互いの愛をわかり合えた時に、心から喜べる私たちです。そして、こうした、愛の体験を分かち合っている人々です。愛の体験を分かち合っている私たちです。愛の望み、苦しみ、悲しみ、喜びを分かち合っている私たちです。この分かち合いが、


分かち合いを広げていくことが、福音宣教です。


教会は、「キリストのからだ」です。「からだ」とは、「生きていること」です。


キリストのからだとは、キリストが生きていることです。私たち教会は、愛のために苦しんでいます。そこに、受難を生きておられるキリストを見いだすことができます。私たち教会は、愛のために喜んでいます。そこに、復活を生きておられるキリストを見いだすことができます。


私たち教会が愛される時、キリストが愛されます。私たち教会が愛を生きている時、キリストが愛しておられます。このように、この世界でキリストが生きておられること、それが、福音です。


私たち教会は、今、「シノドス」を歩んでいます。「シノドス」とは、愛をともに生きることです。愛をともに生きる私たちのことです。そして、「シノドス」を生きるために、次の問いが出されています。


「『シノドス』は、福音を分かち合いながら、『ともに旅をする教会』です。この『ともに旅をする』ということは、今日、わたしたち共同体の中で、どのように進んでいるでしょうか。わたしたちが『ともに旅をする』中で成長するために、聖霊は、これから、わたしたちがどのように歩んでいくように招いているでしょうか。」


「ともに旅をする」とは、愛をともに生きること、生き続けることです。この問いを、ともに考え、分かち合うことで、愛を深めていきましょう。愛を広げていきましょう。あきらめずに、無関心にならずに、愛をともに生きていきましょう。

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一場 修







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