2022年10月 2日(日) 年間第27主日ミサ
- kiotanblock
- Oct 1, 2022
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2022年10月 2日(日) 年間第27主日ミサ
一場神父から、年間第27主日ミサの「朗読箇所と説教」が届きましたので掲載します
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小教区役員窓口の皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
10月2日「年間第27主日」の朗読箇所と説教をお送り致します。
「ことばの祭儀」の配信は、10月2日(日)午前7時の予定です。よろしくお願い致します
皆様のためにお祈りしています。一場
【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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《10月2日/年間第27主日》
★第一朗読/ハバクク1・2-3、2・2-4
ハバククの預言
1・2主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに
いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。
わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに
あなたは助けてくださらない。
3どうして、あなたはわたしに災いを見させ
労苦に目を留めさせられるのか。
暴虐と不法がわたしの前にあり
争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。
2・2主はわたしに答えて、言われた。
「幻を書き記せ。
走りながらでも読めるように
板の上にはっきりと記せ。
3定められた時のために
もうひとつの幻があるからだ。
それは終わりの時に向かって急ぐ。
人を欺くことはない。
たとえ、遅くなっても、待っておれ。
それは必ず来る、遅れることはない。
4見よ、高慢な者を。
彼の心は正しくありえない。
しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
★答唱詩編/詩編95・1+2、5+6、7+8
神に向かって喜び歌い、感謝の歌をささげよう。
詩編95
95・1神に向かって喜びうたい、
救いの岩に声をあげよう。
2感謝に満ちてみ前に進み、
楽の音に合わせ神をたたえよう。
5海は神のもの、神に造られたもの。
陸も神のもの、神に形造られたもの。
6身を低くして伏し拝もう、
わたしたちを造られた神の前に。
7神は、わたしたちの神。
わたしたちは神の民、そのまきばのひつじ。
8きょう、神の声を聞くなら、
神に心を閉じてはならない。
★第ニ朗読/➁テモテ1・6-8、13-14
使徒パウロのテモテヘの手紙
愛する者よ、1・6わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。7神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。8だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。13キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。14あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。
★福音朗読/ルカ17・5-10
アレルヤ、アレルヤ。あなたがたに宣べ伝えられた福音は、永遠にとどまる神のことば。アレルヤ、アレルヤ。
ルカによる福音
17・5使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
[説教]
主イエスは、今日、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」と言われます。「からし種一粒ほどの信仰」とは、どのような信仰でしょうか。私たちは、今日、自分の信仰を見つめるよう招かれています。
聖書の注解は、からし種について、次のように説明しています。この種は、非常に小さな種である。食べ物に味を付け、鮮度を保つために使われた。また薬としても用いられた。そして、からし種は大きく成長する。人の背丈より高くなることもある。茎は、人の腕ほどの太さになることもある。
「からし種一粒ほどの信仰」は、成長する信仰です。信仰は、失ってしまわない限り、必ず、大きく成長します。成長のしかたは、人によって違います。いつ成長するか。どこで成長するか。早く成長するのか。なかなか成長しないのか。見える形で成長するのか。気がつかないうちに成長するのか。はっきりしていることは、忘れてはならないことは、一粒の信仰があれば、必ず芽を出し、成長するということです。そして、信仰は神の恵みです。ですから、神ご自身が、私たちの信仰を成長させてくださるのです。神は、私たち一人ひとりに、大きい信仰ではなく、大きくなっていく信仰をお与えになるのです。完成した信仰ではなく、成長していく信仰をお与えになるのです。
「からし種一粒ほどの信仰」の成長を妨げるものは何でしょうか。比較です。誰かと比較することです。比較して、他人より優れていると思いこみ、満足してしまうことです。高慢になることです。比較して、誰かより劣っていると思いこみ、自分には信仰がないと判断してしまうことです。そして、比較することで、信仰が恵みであることを忘れてしまうのです。信仰を比較することで、信仰の対象である神を忘れてしまうのです。比較することで、「自分が」という思いが強くなり、「神が」という思いが失われるのです。
それでは、信仰の成長を促すものは何でしょうか。分かち合いです。私たちは、よく分かち合いをします。分かち合いという形で行う集まりだけではありません。教会のすべての活動は、信仰の分かち合いです。私たちのすべての活動は、私たち一人ひとりの信仰によって支えられています。いろいろな活動によって、一人ひとりの信仰は成長していきます。信仰の生きかたは、人によって違います。この違いがあるから、互いの信仰を支え合うことができます。「からし種一粒ほどの信仰」が集まる時、大きな信仰、強い信仰になるのです。そして、共同体がうまくいっていないと感じる時こそ、からし種が大きく成長する時なのです。信仰が豊かになり、清められる時です。大切なことは、何があっても、一人ひとりが、からし種一粒を持ち続けることです。一人ひとりがからし種一粒を持っていることを忘れないことです。
そして、私たちは今、「すべてのいのちを守るための月間」を過ごしています。「いのち」も「からし種一粒」のようなものです。いのちは、成長するからです。からし種一粒ほどに小さくても、無限の可能性を秘めているからです。いのちは、つながり合っています。生かし合っています。ともに生きることで、互いに意味を与え合い、豊かにし合います。そして、いやし合います。いのちを豊かにし、いやすのは、いのちでしかないのです。
私たちは、「からし種一粒ほどの信仰」をもって、「からし種一粒ほどのいのち」に仕えるよう招かれています。私たちは、たくさんのいのちに支えられています。だから、私たちに仕えてくれるいのちに仕えることは、当然なのです。「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」そんな思いをもって、すべてのいのちと仕え合うように励まされているのです。
私たちは、信仰といういのちを与えられています。「からし種一粒ほどの信仰」ですから、大きな可能性を秘めています。この可能性を、「すべてのいのちを守るため」に生きることで、開花させていきましょう。
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一場 修



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