2022年10月23日(日) 年間第30主日ミサ
- kiotanblock
- Oct 22, 2022
- 7 min read
2022年10月23日(日) 年間第30主日ミサ
一場神父から、年間第30主日ミサの「朗読箇所と説教」が届きましたので掲載します
◆ ◆ ◆
小教区役員窓口の皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
10月23日「年間第30主日」の朗読箇所と説教をお送り致します。
「ことばの祭儀」の配信は、10月23日(日)午前7時の予定です。よろしくお願い致します
皆様のためにお祈りしています。一場
【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
《10月23日/年間第30主日》
★第一朗読/シラ35・15b-17、20-22a
シラ書
35・15b主は裁く方であり、
人を偏り見られることはない。
16貧しいからといって主はえこひいきされないが、
虐げられている者の祈りを聞き入れられる。
17主はみなしごの願いを無視されず、
やもめの訴える苦情を顧みられる。
20御旨に従って主に仕える人は受け入れられ、
その祈りは雲にまで届く。
21謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、
それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。
彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、
22a正しい人々のために裁きをなし、正義を行われるときまで。
★答唱詩編/詩編34・2+3、16+18、19+23
主を仰ぎ見て、光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く。
詩編34
34・2主をたたえよう、
明け暮れ賛美をくちにして。
3主はわたしたちの口のほこり、
苦しむときの心のよろこび。
16主のまなざしは正しいひとに、
耳は彼らのさけびに。
18主は正しい人の声を聞き、
悩みの中から救ってくださる。
19主はしいたげにあう者のそばにおられ、
失意の人をささえ、
23主はそのしもべの魂をあがない、
より頼む人を滅びからすくわれる。
★第二朗読/?テモテ4・6-8、16-18
使徒パウロのテモテへの手紙
愛する者よ、4・6わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。7わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。8今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
16わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。17しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。18主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
★福音朗読/ルカ18・9-14
アレルヤ、アレルヤ。神はキリストのうちに世をご自分に和解させ、和解のことばをわたしたちにゆだねられた。アレルヤ、アレルヤ。
ルカによる福音
そのとき、18・9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスは次のたとえを話された。
10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
[説教]
今日は、「世界宣教の日」です。今年のテーマは、主イエスの宣教への招きの御言葉、「あなたがたはわたしの証人となる」です。今日のための、フランシスコ教皇メッセージで、次のようにのべられています。「キリスト者は皆、キリストの宣教者、証人となるように召されています。」私たちは皆、福音を宣教するよう招かれています。今日の福音は、福音を宣教する者の祈りについて説いています。
主イエスは、今日もたとえを語られます。「祈るために神殿に上った」二人の物語です。たとえに登場する一人は、「ファリサイ派の人」です。この人は祈ります。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」このような祈りをする限り、福音を証しすることはできません。この祈りに、神の救いのわざへの感謝がありません。自分の行いを自慢しているだけです。自分の力で救いを勝ち取ったことを誇っているだけです。さらに、自分だけが正しいと主張しています。自分だけが救われることに満足しています。他の人が救われないことを喜んでいます。福音を独り占めしています。神の愛とめぐみを「奪い取る者」となっています。
もう一人の登場人物、「徴税人」はどうでしょうか。この人は、「遠くに立って、目を天に上げようともせず」、心からの祈りをささげます。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」この祈りこそ、福音をのべ伝える者の祈りです。福音を宣教する者は、神の救いのわざがすべてであると宣言します。自分の罪、弱さ、限界を知っています。神の愛とめぐみによって、救われることを知っています。自分「も」救われたいと願います。自分だけでなく、他の人「も」救われることを心から願います。そして、徴税人は、「遠くに」います。福音は、遠くにいる人にもたらされます。主イエスは、神殿に留まることなく、「遠くに」出向かれのです。福音は、私たちが生きている地上でのべ伝えられるものです。私たちは、「目を」地上に向けて、福音をのべ伝えます。遠くに出向き、地上でともに生きる人々と、救われることを願います。すべての人の救いを願い、神の救いの福音を分かち合います。
「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」私たちは、ミサやことばの祭儀の始めに、この祈りをささげます。共同体の祭儀でささげることで、私たちの祈りになります。私たちがのべ伝える福音になります。主の前で、回心の祈りをともにささげる時、私たちは、福音をのべ伝える共同体となります。ともに回心することができることは、福音なのです。
「世界宣教の日」の教皇メッセージの中で、次のようにのべられています。「『あなたがたはわたしの証人となる』…〔という御言葉で〕複数形であることは、弟子たちへの宣教の呼びかけの共同体的・教会的な性格を強調しています。洗礼を受けた人は皆、教会の中で、教会に遣わされ、宣教へと招かれています。したがって宣教は個別にではなく、教会共同体との交わりをもって、己の発意でではなく共同で行うものです。ですから特別な状況下で単独で福音宣教を行う人であっても、つねにその人を派遣した教会との交わりの中でそれを行うのであり、またそうでなければなりません。」
「神様、罪人のわたしを憐れんでください」という祈りが、「神様、罪人のわたしたちを憐れんでください」という祈りに変わっていくこと。これが、福音が広がっていくことではないでしょうか。共同体として、「罪人のわたしたち」となっていく。教会を越えて、ともに、「罪人のわたしたち」となっていく。そして、ともに、神の憐れみをを願う。これが、「義とされ」ることではないでしょうか。自分の正しさを押しつけ合うのではなく、自分の弱さを認め、祈り合う。これが、福音の実現ではないでしょうか。私たち皆の救いではないでしょうか。
使徒パウロは、今日、福音宣教者としての、自分の体験を分かち合っています。「わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。」私たちも、今、同じ体験をしています。主イエスは、私たちのそばにいて、力づけてくださいます。ともに歩んでくださる主イエスに支えられて、福音宣教の歩みを続けていきましょう。「神様、罪人のわたしたちを憐れんでください」と祈り続けましょう。この祈りを深め、広げていきましょう。主イエスは、必ず、私たちを「すべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。」
--
一場 修

Comments