4月13日「受難の主日」の受難の朗読と説教
- kiotanblock
- Apr 8
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4月13日「受難の主日」の受難の朗読と説教
一場神父から上記説教等が届きましたので掲載します。
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京丹ブロックの皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
4月13日「受難の主日」の受難の朗読と説教をお送り致します。「ことばの祭儀」は、4月13日(日)午前7時に公開予定です。よろしくお願い致します。
皆様、良い聖週間をお迎えください。皆様のために、いつもお祈りしています。一場
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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{4月13日/受難の主日〕【受難の朗読/ルカ23・1-49】
(ルカによる主イエス・キリストの受難)
C そのとき、*23・1*民の長老会、祭司長たちや律法学者たちは立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。*2*そして、イエスをこう訴え始めた。
S 「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」
C *3*そこで、ピラトがイエスに尋問した。
A 「お前がユダヤ人の王なのか。」
C イエスはお答えになった。
十 「それは、あなたが言っていることです。」
C *4*ピラトは祭司長たちと群衆に言った。
A 「わたしはこの男に何の罪も見いだせない。」
C *5*しかし、彼らは言い張った。
S 「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです。」
C *6*これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、*7*
ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。へロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。*8*
彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。
*9*それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。*10*祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。*11*
ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。*12*
この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。*13*ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、*14*
言った。
A
「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。
*15*ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。*16*
だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
C *18*しかし、人々は一斉に叫んだ。
S 「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」
C *19*このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。*20*ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。*21*
しかし、人々は叫び続けた。
S 「十字架につけろ、十字架につけろ。」
C *22*ピラトは三度目に言った。
A 「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
C *23*ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。*24*
そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。*25*
そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。*26*
人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。*27*
民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。*28*イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。
十 「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。*29*
人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。*30*
そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。*31*
『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
C *32*ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。*33*
「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。*34*
そのとき、イエスは言われた。
十 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
C 人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。*35*民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。
A 「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
C *36*兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、*37*言った。
A 「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
C *38*イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。*39*十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
A 「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
C *40*すると、もう一人の方がたしなめた。
A 「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。*41*
我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
C *42*そして、言った。
A 「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」
C *43*すると、イエスは言われた。
十 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」
C *44*既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。*45*太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。*46*
イエスは大声で叫ばれた。
十 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」
C こう言って息を引き取られた。
*47*百人隊長はこの出来事を見て、神を賛美して言った。
A 「本当に、この人は正しい人だった。」
C *48*見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。*49*
イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
[説教]
私たちは今日、皆で、「ルカによる主イエス・キリストの受難」を分かち合っています。読んだり、聞いたりするのではなく、この出来事に加わっています。主の受難は、今、こうして集まっている、私たちに起こっている出来事なのです。
「人々は、叫び続けた。『十字架につけろ、十字架につけろ。』」人々とは、私たちのことです。私たちは、自分が正しいと思いこんで、今も、誰かのことで、「十字架につけろ」と叫んでいないでしょうか。まわりが「十字架につけろ」と叫んでいるからという理由だけで、まわりの声よりも大きな声で、「十字架につけろ」と叫んでいないでしょうか。叫ぼうとしない人に、叫ぶことを強要していないでしょうか。
主イエスは、「十字架につけろ」と叫んだ私たちのために、祈ってくださいます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」主は、私たちが罪を犯すことから解放されることを願っておられます。私たちは、自分が何をしていることを知るべきです。しなければならないことをしていないという現実を直視すべきです。罪を知り、今しなければならないことを始めようとする時、始めたいと願う時、始められないことに痛みを感じる時、罪がゆるされることになります。「十字架につけろ」という叫びが止まります。そして、百人隊長のように、心から、「神を賛美して」言います。「本当に、この人は正しい人だった。」
福音記者ルカは、主イエスとともに、二人の「犯罪人」が十字架につけられたと伝えています。罪のゆるしを願っている私たちは、叫ぶことを止めた私たちは、今度は、この犯罪人たちのように、十字架につけられています。主を苦しめていた私たちは今、主とともに苦しんでいます。世界の苦しみを分かち合っています。そして、苦しみの中から、救い主に祈ります。「イエスよ、おなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」この祈りは、希望を抱いている者の祈りです。主の御国である神の国は、すでに来ていますが、まだ完成していません。私たちは皆、神の国に入るように招かれていますが、今はまだ、十分に、その招きに応えることができません。しかし、主が再び、私たちのところに来られ、神の国が完成する時、私たちは、喜んで、神の国への招きに応えることができます。主が、私たちのことを覚えていてくださり、再び招いてくだされば、必ず応えることができます。「わたしを思い出してください」という祈りは、希望が実現するという確信なのです。希望の巡礼者の祈りなのです。
今、十字架上でともに苦しんでいる私たちに、主イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われます。私たちはすでに、神の国の完成という「楽園」に向かって歩み始めているのです。神の国の完成に向かって、ともに歩むことが、一歩一歩の歩みこそが、楽園なのです。この歩みを続けながら、聖週間を過ごしたいと思います。希望の巡礼者として、楽園への道ではなく、楽園である道を、ともに歩んで行きたいと思います。
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