12月17日「待降節第3主日」の朗読聖書と説教
- kiotanblock
- Dec 13, 2023
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12月17日「待降節第3主日」の朗読聖書と説教
一場神父から12月17日「待降節第3主日」の朗読聖書と説教が届きましたので掲載します。
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小教区窓口の皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
12月17日「待降節第3主日」の朗読聖書と説教をお送り致します。「ことばの祭儀」は、12月17日(日)午前9時に公開予定です。
よろしくお願い致します。
引き続き、世界平和のために、心を合わせて祈りたいと思います。皆様のためにお祈りしています。
一場
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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〔12月17日/待降節第3主日〕
【第一朗読/イザヤ61・1-2a、10-11】
イザヤの預言
61・1主はわたしに油を注ぎ、
主なる神の霊がわたしをとらえた。
わたしを遣わして
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み、
捕らわれ人には自由を、
つながれている人には解放を告知させるために。
2a主が恵みをお与えになる年、
わたしたちの神が報復される日を告知させるために。
10わたしは主によって喜び楽しみ、
わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。
主は救いの衣をわたしに着せ、
恵みの晴れ着をまとわせてくださる。
花婿のように輝きの冠をかぶらせ、
花嫁のように宝石で飾ってくださる。
11大地が草の芽を萌えいでさせ、
園が蒔かれた種を芽生えさせるように、
主なる神はすべての民の前で
恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。
【答唱詩編/ルカ1・46-55、栄唱】
①わたしは神をあがめ、神の救いに喜びおどる。 ②神のあわれみは代々、神をおそれ敬う人の上に。
マリアの歌
1・46わたしは神をあがめ、
47わたしの心は神の救いに喜びおどる。
48神は卑しいはしためを顧みられ、
いつの代の人もわたしをしあわせな者と呼ぶ。
49神はわたしに偉大なわざを行われた。
その名はとうとく、*50*あわれみは代々、
神をおそれ敬う人のうえに。①
51神はその力をあらわし、
思いあがる者を打ちくだき、
52権力をふるう者をその座からおろし、
見捨てられた人を高められる。
53飢えに苦しむ人はよいもので満たされ、
おごり暮らす者はむなしくなって帰る。②
54神はいつくしみを忘れることなく、しもベイスラエルを助けられた。
55わたしたちの祖先、アブラハムとその子孫に約束されたように。
栄光は父と子と聖霊に。
初めのように今もいつも世々に。アーメン。②
【第二朗読/①テサロニケ5・16-24】使徒パウロのテサロニケの教会への手紙
皆さん、*5・16*いつも喜んでいなさい。*17*絶えず祈りなさい。*18*
どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。*19*〝霊〟の火を消してはいけません。*20*
預言を軽んじてはいけません。*21*すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。*22*あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
23
どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。
24あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。
【福音朗読/ヨハネ1・6-8、19-28】
アレルヤ、アレルヤ。神の霊はわたしの上にある。貧しい人に福音を告げるため、神はわたしを選ばれた。アレルヤ、アレルヤ。
ヨハネによる福音
1・6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。*7*
彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。*8*
彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
19
さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、
20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。*21*
彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
22
そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」
23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」
24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。*25*
彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、*26*
ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。*27*
その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」*28*
これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
【説教】
私たちは今日、主イエスを迎える喜びを分かち合うよう招かれています。共同体の姉妹兄弟と、すべての人と、すべてのいのちと分かち合うよう招かれています。
今週の福音にも、先週に引き続き、洗礼者ヨハネが登場しています。ヨハネは、「光ではなく、光について証しをするために来た」とあります。「光」とは、暗闇の中にある世界を照らす光、主イエスのことです。ヨハネは、主イエスがこの世界に来られ、世界は光で照らされると宣言しているのです。実際、ヨハネは、光に照らされているのです。
今、多くの人は、ヨハネが光に照らされていることで満足しようとしています。光に照らされたヨハネを見ることに満足して、自分たちは、闇の中にとどまろうとしています。闇の中にとどまっている限り、動く必要がないからです。暗いから何もできないと、不平だけを言えば良いからです。言い訳をしていれば良いからです。闇の中は、ある意味で、心地よいところです。まわりが見えないからです。自分のことだけを考えていれば良いからです。被害者の一人になっていれば良いからです。
闇に慣れてしまうと、光が苦痛をもたらすものとなってしまうことがあります。光に照らされると、まわりが見えるようになります。まわりと関わっている自分も見えます。歩むべき道が、目の前に現れます。知らないから何もできないと言えなくなります。光に照らされるということは、まわりが見えるようになり、歩み始めるということなのです。確かに、今日の世界の現実は、目を背けたくなるほどひどくなっています。しかし、ここで暗闇にとどまることは、世界の現状を肯定することになるのです。何もできない、仕方がないとあきらめることになるのです。光に照らされということは、神のみ旨に反する世界の現状を拒否することなのです。あきらめずに、歩み始めること、歩み続けることなのです。
ヨハネは今日、私たちに言います。「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」「知らない方」とは、私たちの光、主イエスです。私たちは、主イエスについて完全に知っているわけではありません。この地上にいる限り、知らないことの方が多い、はるかに多いと言えます。だから、私たちは、いつも、自分が知らない主イエスに出会うこと望んでいます。新たな出会いを求めて、再び、旅を始めます。ヨハネが授ける「洗礼」とは、この歩みを始めることではないでしょうか。洗礼は、旅の始まりです。洗礼を受けることで、私たちは、闇の中から出たいと願いを持つようになります。洗礼を受けて、光の方に向かって歩み始めるようになります。光に照らされことは、一度だけのことではありません。何度も何度も、照らされます。もし、過去に照らされた光にこだわり、新たな光に照らされることを拒否するならば、闇の中にとどまることになるでしょう。私たちはいつも、新たなな光に照らされるのです。照らされ続けるのです。照らされ続けているからこそ、どこかにとどまる必要はなく、旅を続けることができるのです。闇の中にいるから動けないのではないのです。動かないから、動こうとしないから、闇の中にいることになるのです。洗礼は、私たちに旅を始める勇気を、喜びを与える恵みなのです。
私たちは今、自分が知らない主イエスに出会うために、待降節という旅を続けています。新たな光に照らされることを望んで、歩んでいます。必ず、主に出会い、光に照らされると信じて、喜びのうちに、主の降誕の準備を続けています。「いつも喜んでいなさい」という、使徒パウロの呼びかけに応えて歩んでいます。私たちは、自分のために喜ぶのではありません。主がもたらされる喜びを、すべての人と分かち合うために喜んでいるのです。多くの人が喜びを感じることができない状況だからこそ、喜びという恵みを告げ知らせているのです。誰もが光に照らされて、この世界が喜びに満たされる。この福音を宣べ伝えながら、主の降誕祭を迎えましょう。
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