12月25日「主の降誕(日中)」朗読と説教
- kiotanblock
- Dec 21, 2022
- 6 min read
12月25日「主の降誕(日中)」朗読と説教
一場神父から12月25日「主の降誕(日中)」朗読と説教説教が届きましたので掲載します
◆ ◆ ◆
小教区役員窓口の皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
12月25日「主の降誕(夜半)」および「主の降誕(日中)の朗読箇所と説教を、これからお送り致します。
「ことばの祭儀」の配信は、それぞれ、12月24日(土)午後10時、25日(日)午前10時の予定です。よろしくお願い致します
良いクリスマスをお迎えください。皆様のためにお祈りしています。一場
◆ ◆ ◆
【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
1〔12月25日/主の降誕(日中)〕
【第一朗読/イザヤ52・7-10】
イザヤの預言
52・7いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
救いを告げ
あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。
8その声に、あなたの見張りは声をあげ
皆共に、喜び歌う。
彼らは目の当たりに見る主がシオンに帰られるのを。
9歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。
主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
10主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。
地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ。
【答唱詩編/詩編98・1、2+3a、4+5】
遠く地の果てまで、すべての者が神の救いを見た。
詩編98
98・1新しい歌を神にうたえ。
神は不思議なわざを行われた。
神の偉大な右の手、
そのとうとい腕は救いの力。
2神は救いをしめし、
諸国の民に正義を現された。
3aいつくしみとまことをもって、
イスラエルに心を留められる。
4世界よ、神に向かって喜びの声をあげ、
賛美の歌で神をほめよ。
5たて琴をかなでて、神をたたえ、
その調べに合わせてほめ歌え。
【第二朗読/ヘブライ1・1-6】
ヘブライ人への手紙
1・1神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、2この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、3神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。4御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。
5いったい神は、かつて天使のだれに、
「あなたはわたしの子、
わたしは今日、あなたを産んだ」
と言われ、6更にまた、
「わたしは彼の父となり、
彼はわたしの子となる」
と言われたでしょうか。むしろ、神はその長子をこの世界に送るとき、
「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」
と言われました。
【福音朗読/ヨハネ1・1-5、9-14】
アレルヤ、アレルヤ。偉大な光がきょう地上に下り、聖なるこの日はわたしたちを照らした。諸国の民は来て主を礼拝せよ。アレルヤ、アレルヤ。
ヨハネによる福音
1・1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。12この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
【説教】
「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」福音記者ヨハネが伝える、この出来事が、主の降誕です。私たちは、1月9日の「主の洗礼」まで、この救いの出来事を祝います。この救いの福音を、喜びの内に、告げ知らせます。
今日の福音は、この「言」について、「言の内に命があった」と述べています。「言」は、神です。神の愛です。「命」は、「神が、今、生きておられる」ということです。「神が、今、私たちを、すべてのいのちを愛しておられる」ということです。そして、「すべてのいのちが、神によって、生かされている」ということです。
この「命」は、私たちの「光」です。この光がなければ、「暗闇」の中にとどまることになります。暗闇の中にいると、私たちのまわりの人に気づきません。まわりの人に支えられていることに気づきません。自分一人で生きていると思い込んでしまいます。まわりの世話になっていないと思い込んでしまいます。外に出なくても、生活することができると誤解します。生活に必要なものを届けてくれる人のことを忘れてしまいます。届けてくれる人よりも、自分が買ったものの方が大切になってしまいます。まわりのいのちより、自分の、今の楽しみを優先してしまいます。そして、暗闇の中にとどまり続けると、光を拒むようになります。神の愛を信じることができなくなります。
しかし、ヨハネは、力強く宣言します。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」命であり、愛である「光」は、すべての人を照らしています。そして、主の降誕を祝っている私たちは、光に照らされていることを、日々体験しています。まわりの人との交わりを大切にしています。支え合わなければ生きていけないことを実感しています。身体は離れていても、祈りによってつながり合うことができることを知っています。すべての人とともに、すべてのいのちとともに、幸せになりたいと心から願っています。願うだけでなく、日々、努力しています。
そんな私たちのために、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」のです。「肉」となったとは、私たちと同じ弱い人間となったということです。この弱い人間が、私たちの救い主イエス・キリストです。私たちは皆、弱い人間です。今日の集会祈願で、私たちは、次のように祈りました。「永遠の父よ、あなたは、人間を優れたものとして造り、救いのわざを通して、さらに優れたものにしてくださいました。」私たちは、優れたものです。自分の弱さを知っているからです。私たちは、神と出会うことで、さらに優れたものとされました。私たちの弱さが、神への愛、相互の愛に変えられたからです。弱さを知れば知るほど、愛が深まっていくからです。
私たちの救い主イエスは、この弱さを分かち合うために、「肉」となられたのです。肉となって、私たちの間に天幕を張られたのです。弱さを分かち合いながら、私たちの愛を深めてくださるのです。主イエスは、自分の弱さを隠す、堅固な神殿の中におられません。主イエスは、天幕の中におられます。天幕は、強い風が吹けば倒れます。激しい雨で潰れてしまいます。しかし、天幕は、すぐに立て直すことができます。皆で協力すれば、すぐに立ちます。立てなおした後、私たちの愛は深まります。主イエスは、こうした天幕の中におられ、私たちと愛を分かち合ってくださいます。
この降誕節、私たちは、主イエスの天幕の中で過ごしたいと思います。天幕の中で、主イエスという光に照らされたいと思います。主の光に照らされて、神のいのち、神の愛を分かち合いたいと思います。そして、天幕に住む私たちは、一つのところにとどまる必要はありません。移動することができます。福音を告げ知らせる旅を続けることができます。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」この福音を告げ知らせる旅を続けていきましょう。
--
一場 修
Comments