4月2日「受難の主日」の福音朗読と説教
- kiotanblock
- Mar 29, 2023
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4月2日「受難の主日」の福音朗読と説教
一場神父から4月2日「受難の主日」の福音朗読と説教が届きましたので掲載します
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小教区窓口の皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
4月2日「受難の主日」の福音朗読と説教をお送り致します。
「ことばの祭儀と黙想」は、4月2日午前7時に公開予定です。よろしくお願い致します
皆様が恵みに満ちた聖週間を過ごされますように、毎日お祈りしています。
一場
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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〔4月2日/受難の主日〕
【入城の福音/マタイ21・1-11】マタイによる福音
21・1イエスの一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2
言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。3
もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」4それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
5「シオンの娘に告げよ。
『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
6弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、7ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8
大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。9そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
主の名によって来られる方に、祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」
10イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。11
そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
【受難の朗読/マタイ27・11-54】マタイによる主イエス・キリストの受難
C そのとき、27・11イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに尋問した。
A 「お前がユダヤ人の王なのか。」
C イエスは言われた。
十 「それは、あなたが言っていることです。」
C 12祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。13するとピラトは言った。
A 「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか。」
C 14それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。15
ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。16そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。17
ピラトは、人々が集まって来たときに言った。
A 「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」
C 18人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。19一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。
A 「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」
C 20しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。21そこで、総督が言った。
A 「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか。」
C 人々は言った。
S 「バラバを。」
C 22ピラトが言った。
A 「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか。」
C 皆は言った。
S 「十字架につけろ。」
C 23ピラトは言った。
A 「いったいどんな悪事を働いたというのか。」
C 群衆はますます激しく叫び続けた。
S 「十字架につけろ。」
C 24ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。
A 「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
C 25民はこぞって答えた。
S 「その血の責任は、我々と子孫にある。」
C 26そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。27
それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。28そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、
29茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、侮辱して言った。
A 「ユダヤ人の王、万歳。」
C 30また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。31
このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
32兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。33
そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34
苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。35
彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、36そこに座って見張りをしていた。37
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。38
折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
40言った。
A 「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
C 41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
A 42「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43
神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
C 44一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。
十 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
C これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、
A 「この人はエリヤを呼んでいる」
C と言う者もいた。48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。49
ほかの人々は言った。
A 「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう。」
C 50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。53
そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。54
百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、言った。
A 「本当に、この人は神の子だった。
【説教】
受難の主日である今日、私たちに、二つの福音が与えられています。主イエスがエルサレムに迎えられることを告げる福音と、主イエス・キリストの受難を告げる福音です。
エルサレム入城の福音では、群衆が、熱狂して主イエスを迎えます。イエスは、子ろばに乗られます。ろばは、私たちの重荷を負う救い主を表しています。どんなに重くても、私たちのためにじっと耐える救い主を表しています。私たちとともに、ゆっくりと歩む、柔和な救い主を表しています。群衆は、ろばに乗っておられるイエスを、救い主として迎えるのです。そして、ろばのような救い主とともに、歩むのです。ここで、私たちも、ミサをささげるたびに、子ろばである主を迎えていることを思い起こしましょう。私たちは、ミサの中で、主イエスがご自分をささげられ前に、主を賛美します。「主の名によって来られるかたに賛美。天には神にホザンナ」と賛美します。この感謝の賛歌をささげる時、私たちは、天上の教会とともに、子ろばである主イエスを賛美しているのです。
受難の朗読では、この群衆が、口をそろえて叫びます。「十字架につけろ」と叫びます。そんな群衆に、総督ピラトは尋ねます。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」ピラトは、群衆に問いかけているのです。群衆は、この問いかけに答えなければならないのです。しかし、「群衆はますます激しく叫び続け」るのです。「十字架につけろ。」子ろばのような救い主を、「十字架につけろ」と叫び続けるです。
子ろばのように優しい救い主を賛美した群衆は、子ろばのようにおとなしい救い主を、十字架にかけて殺してしまったのです。確かに、権力者たちは、「イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得し」ました。だから、群衆には、責任がないのでしょうか。そんなことはありません。群衆は、イエスの死について、はっきりと宣言しています。「その血の責任は、我々と子孫にある。」群衆には、大きな責任があります。権力者たちに説得されたからこそ、まわりに流されたからこそ、その場の空気にのみ込まれたからこそ、責任があります。空気を読んだからこそ、責任があります。
群衆は、いつの時代にも、どこにでも存在します。誰でも、群衆になる可能性があります。しかし、群衆から、いつでも抜け出すことができます。私たちは、群衆にのみこまれないために、群衆から抜け出すために、十字架につけられているイエスをじっと見つめたいと思います。四旬節第3主日から第5主日までの三つの福音を思い起こしながら、見つめたいと思います。福音によって清められた心の目で、十字架上のイエスの心を見つめたいと思います。十字架につけられている主から流れ出る血に、愛の泉を見い出したいと思います。そして、愛を生き抜けば、死んでも生きる。愛のために死ぬからこそ、愛は生き続ける。この、復活信仰を新たにしたいと思います。
「本当に、この人は神の子だった。」今日の福音の最後の言葉です。主イエスの死をじっと見つめ、その死の意味を悟った者の信仰宣言です。マタイは、主が亡くなられた時に起こった出来事を伝えています。「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」もう、復活は始まっています。私たちも、主イエスを信じている共同体として、宣言しましょう。「本当に、この人は神の子だった。」「本当に、この方は、神の子です」と。
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一場 修
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