4月7日「復活節第2主日」の聖書朗読と説教
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- Apr 3, 2024
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4月7日「復活節第2主日」の聖書朗読と説教
一場神父から上記説教等が届きましたので掲載します。
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小教区窓口の皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
4月7日「復活節第2主日」の聖書朗読と説教をお送り致します。「ことばの祭儀」は、4月7日(日)午前7時に公開予定です。
よろしくお願い致します。
桜の花が咲き暖かくなっていますが、寒暖差が大きいです。体調を崩さないように、くれぐれもお気をつけください。皆様のためにお祈りしています。
一場
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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〔4月7日/復活節第2主日〕
【第一朗読/使徒言行録4・32-35】
(使徒たちの宣教)
4・32信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。*33*
使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。*34*
信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、*35*
使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。
【答唱詩編/詩編118・1+2、16+17、22+23】
きょうこそ神が造られた日、喜び歌え、この日をともに。
(詩編118)
118・1恵み深い神に感謝せよ。
そのあわれみは永遠。
2イスラエルよ、叫べ。
神のいつくしみは絶えることがない。
16神の右の手は高くあがり、
その右の手は力を示す。
17わたしは死なず、わたしは生きる。
神のわざを告げるために。
22家造りの捨てた石が、
隅の親石となった。
23これは神のわざ、
人の目には不思議なこと。
【第二朗読/①ヨハネ5・1-6】
(使徒ヨハネの手紙)
愛する皆さん、*5・1*
イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。*2*
このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。*3*
神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。*4*
神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。*5*
だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。*6*
この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血によって来られたのです。そして、〝霊〟はこのことを証しする方です。〝霊〟は真理だからです。
【福音朗読/ヨハネ20・19-31】
アレルヤ、アレルヤ。トマよ、あなたはわたしを見たので信じた。見ないで信じる人は幸い。アレルヤ、アレルヤ。
ヨハネによる福音
20・19
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。*21*
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」*22*
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。*23*
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。*25*
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
26
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
27
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。*29*
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。*31*
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
【説教】
今日、復活節第2主日は、「白衣の主日」とも呼ばれています。洗礼の直後、「白衣を着る」とは、洗礼を受けた人が新しい人となり、キリストを着る者となったことを表しています。この白衣を脱ぐ日が、この「白衣の主日」なのです。
洗礼を受けた人は、なぜ白衣を脱ぐのでしょうか。それは、洗礼を受けた人の体が、キリストの体に変えられているからなのです。キリストを着るのではなく、キリストの体となったからなのです。今日の集会祈願で、私たちは共同体として、次のように信仰宣言しました。「あわれみ深い神よ、あなたは、キリストのとうとい血によってわたしたちをあがない、水と聖霊によって新しいいのちを与えてくださいます。」洗礼によって、新しいいのちを与えられた体は、復活のキリストの体となっているのです。松本三朗氏は、『神の国をめざして』という著書の中で、「みなさんは洗礼を受けたとき、キリストになったわけです」とさえ言っています。洗礼を受けた人は、白衣を着ていなくても、キリストの体として、復活の体として、生きていけるのです。
今日の福音で、復活されたイエスご自身が、復活の体を示されます。復活された主は、「恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」弟子たちの「真ん中に立ち」ます。そして、「あなたがたに平和があるように」と、繰り返し言われます。復活のキリストの体となった私たちも、同じことを行っています。私たちは教会は、共同体として集まる時に、戸を開けて、訪れる人を歓迎します。恐れて、鍵をかけて、知っている者だけで、集まることはありません。いつでも、誰でも、入ることができるようにします。教会だから、あたりまえではないか。教会を訪れてくれる人がいたら、うれしい。そう思えるとしたら、復活のキリストの体となっているのです。キリストの体として、自然に生きているのです。
そして、私たちは、復活されたイエスのように、平和のあいさつを繰り返しています。ミサやことばの祭儀の時だけではありません。さまざまなメッセージを「主の平安」とか、「キリストの平和」といった言葉で始めていないでしょうか。そして、悩みや悲しみの時、誰かから、「お祈りしています」と声をかけられる時、心が平和になります。私たち教会は、主の平和を祈り合っている、キリストの体なのです。教会の中で平和を願うだけでなく、世界の平和を願い、実現していく、復活の体なのです。争い悩む、この世界の中で、平和の実現のために生きている、キリストの体なのです。
福音記者ヨハネが伝える、復活キリストの体は、傷ついていました。十字架の「釘の跡」は、そのまま残っていました。槍で刺された「わき腹」の傷は、手を入れることができるほど、大きく、深いものでした。復活の体は、傷つく体です。洗礼を受けても、私たちは、傷つきやすい体のままです。洗礼を受けて、強くなるわけではありません。むしろ、人間としての傷つきやすさ、弱さ、もろさを知ることになります。自分の弱さに気づくからこそ、神の愛を知ることができます。傷つきやすい体で生きているからこそ、まわりのいのちを大切にすることができます。こうしたことこそ、今日私たちが願っている、「洗礼の恵みを深く悟」ることなのです。
私たちは、今、世界の平和を、心から願っています。平和は、敵の攻撃を恐れて、強力な武器を手にして、自分を守ることで実現することではありません。平和は、人間の、すべてのいのちの傷つきやすさを認めることです。弱く、もろい存在だからこそ、傷つけ合うことをやめる勇気を持つことです。体の弱さを、愛の強さに変えていくことです。そして、すべての人が、安心して、弱く、もろい体のままで生きている時、そこに平和が実現しているのです。
今日は、「神のいつくしみの主日」でもあります。この主日は、2000年に定められ、日本では、2003年から祝われています。「9・11」以降、世界は、強くならければ生き残れないという思いに支配されています。コロナ禍は、そうした思いをあらためる機会でした。しかし、あらたまるどころか、多くのもろい体が破壊されています。愛を生きられるはずの復活の体が、たやすく否定されています。弱く、もろい体のままで生きていけるようにしてくださった神のいつくしみが、ないがしろにされています。だからこそ、神のいつくしみを宣べ伝えたいと思います。深い傷を負いながら、復活された主イエスのいつくしみをたたえて、宣言したいと思います。
「恵み深い神に感謝せよ。そのあわれみは永遠。
神のいつくしみは絶えることがない。」
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