7月21日「年間第16主日」の聖書朗読と説教
- kiotanblock
- Jul 18, 2024
- 6 min read
7月21日「年間第16主日」の聖書朗読と説教
一場神父から上記説教等が届きましたので掲載します。
◆◆◆
小教区窓口の皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
7月21日「年間第16主日」の聖書朗読と説教をお送り致します。「ことばの祭儀」は、7月21日午前7時に公開予定です。
よろしくお願い致します。
猛暑が続きます。熱中症などにお気をつけください。皆様のために、お祈りしています。
一場
◆◆◆
【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
◆◆◆
〔7月21日/年間第16主日〕
【第一朗読/エレミヤ23・1-6】
(エレミヤの預言)
*23・1*「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。*2*
それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。
「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。
*3*「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。*4*
彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。
*5*見よ、このような日が来る、と主は言われる。
わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。
王は治め、栄え、
この国に正義と恵みの業を行う。
*6*彼の代にユダは救われ、
イスラエルは安らかに住む。
彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。
【答唱詩編/詩編23・2+3、4、6】
主はわれらの牧者、わたしは乏しいことがない。
(詩編23)
*23・2*神はわたしを緑のまきばに伏させ、
いこいの水辺に伴われる。
*3*神はわたしを生き返らせ、
いつくしみによって正しい道に導かれる。
*4*たとえ死の陰の谷を歩んでも、
わたしはわざわいを恐れない。
あなたがわたしとともにおられ、
その鞭と杖はわたしを守る。
*6*神の恵みといつくしみに
生涯伴われ、
わたしはとこしえに
神の家に生きる。
【第二朗読/エフェソ2・13-18】
(使徒バウロのエフェソの教会への手紙)
皆さん、*2・13*あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
*14*実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、*15*
規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、*16*
十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。*17*
キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。*18*
それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
【福音朗読/マルコ6・30-34】
アレルヤ、アレルヤ。羊はわたしの声を聞き分け、わたしもその羊を知り、羊はわたしに従う。アレルヤ、アレルヤ。
(マルコによる福音)
そのとき、*6・30*使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。*31*
イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。*32*
そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。*33*
ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。*34*
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
【説教】
私たちは今、福音を証しする歩みを続けています。主イエスは今日、福音宣教を続けている私たちに、福音を宣べ伝える者の生き方を示しておられます。
福音宣教を続けていくために、私たちには、「人里離れた所に行って、…休む」ことが必要です。私たちは、慌しい毎日を過ごしています。忙しく過ごすように追い立てられています。そうした毎日を過ごしていると、何が大切か、何のために生きているのかを考えることができなくなります。だから、私たちは、時々、慌しい生活から「離れた所」で、ゆっくり「休む」必要があります。ゆっくり休みながら、何が大切なことか、何故生きているのかを考える必要があります。福音とは、用意されている答えではありません。福音とは、主イエスからの問いかけです。福音は、私たちに、本当の幸いをもたらします。それは、福音が、私たちに、本当の幸いとは何かと問いかけるからです。そして、まわりの人と、主からの問いかけを分かち合う時、いっしょに考える時、福音を宣べ伝えるていることになります。福音宣教とは、福音という答えを押しつけることではありません。福音という問いかけを、いっしょに、ゆっくりと考えていくことなのです。本当に大切なこと、生きている意味を、いっしょに考えることが、本当の幸いであると言えます。
福音という問いかけをいっしょに考えるために、私たちは、主イエスのように、「見て、…深く憐れ」みます。「見る」とは、いっしょに考える仲間を、主に愛されている人として、そのまま見るということです。「深く憐れむ」とは、相手の立場に身を置いて、相手の喜びや悲しみを自分の喜びや悲しみとして感じることです。主は真の神ですから、見て、深く憐れむことがおできになります。そして、人々の求めに応じて、「いろいろと教え」られます。しかし、私たちは、限界のある人間です。私たちも、どうしたらよいか分からなくなり、「飼い主のいない羊のよう」になります。ですから、私たちにできることは、同じ羊として、お互いに理解しようと語り合い、いっしょに考えることだと言えます。語り合うこと、聴き合うことで、教え合うことだと言えます。「分かってもらえない」と諦めたり、「分かり合えるはずがない」と決めつけたりしないようにしたいと思います。「分かり合える時が、必ず来る」という希望を持ち続け、分かり合うための語り合い、聴き合いを続けていきたいと思います。主に愛されている「群衆」として、語り合い、聴き合うことこそが、福音そのものなのではないでしょうか。
今日の第二朗読で、「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と宣言されています。キリストがもたらす平和、それは、私たちに「休む」ことをもたらす平和です。休むことによって、私たちに「考える」ことを可能にする平和です。理解し合えないと思い込んでいる人々の心を「一つにし、…敵意という隔ての壁を取り壊」平和です。「分かってもらえない」という嘆きを、「分かり合いたい」という愛、「分かり合える日が来る」という希望に変える平和です。分かり合うために、語り合い、聴き合い、信じ合うという喜びをもたらす平和です。この「平和の福音」を、私たちは、分かち合うように、宣べ伝えるように励まされているのです。
今日の集会祈願で、私たちは、「恵み豊かな神」に願いをささげました。「聖霊を惜しみなくお与えください」と祈り求めました。福音を宣べ伝える者として生きていくために、聖霊の恵みが必要です。ゆっくり休みながら、考えるために、知恵の霊が必要です。日々出会う人と語り合い、分かり合うために、愛の霊が必要です。聖霊の恵みを心から願いもとながら、福音を宣べ伝え続けましょう。
Yorumlar