2024年1月21日(日) キリスト教一致祈祷週間 聖書テキストと説教
- kiotanblock
- Jan 23, 2024
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2024年1月21日(日) キリスト教一致祈祷週間 聖書テキストと説教
一場神父のyoutubeページにキリスト教一致祈祷週間 聖書テキストと説教がUPされていますので、紹介します。
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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【2024 年の聖書テキスト 】《ルカ 10・25-37 》
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先 生、何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」。イエス が、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言わ れると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽く して、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』 とあります」。イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そう すればいのちが得られる」。しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、 わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人 がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎは その人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司が たまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行っ た。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向 こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来 ると、その人を見てあわれに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯を して、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、 デナリオン銀貨 2 枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱 してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』。さて、あな たはこの 3 人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です」。そこで、イエスは言われた。 「行って、あなたも同じようにしなさい」。
【説教】
皆様は、「福田村事件」、正確には、「福田村・田中村事件」をご存知でしょうか。1923年9月1日、関東大震災が発生しました。震災発生直後、全く根拠のない流言飛語、デマが広がりました。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「日本人を皆殺しにしようと火をつけた」などのデマです。余震や火災などの混乱状態にあって、こうしたデマがそのまま信じられて、自警団が組織され、刀剣、木刀、竹槍、鳶口などで、朝鮮人が暴行を受け、ついには虐殺されるという事件が、各地で起こりました。そうした中、四国の香川県から来ていた15名の売薬行商人一行が、千葉県福田村に滞在していました。9月6日、事件は起こりました。行商人一行に、朝鮮人ではないかという疑いがかけられ、地元の福田村・田中村の自警団によって、一行のうちの9名が虐殺されました。鳶口で頭を割られた人、手を縛られたまま利根川に放り投げられた人。殺された9名の中には、6歳、4歳、2歳の幼児、妊娠している女性もいました。胎児を含めれば、10名が虐殺されたことになります。こうした震災直後の朝鮮人に対する暴行や虐殺、福田村事件の背景に、日本の韓国植民地化という事実があることを忘れることはできません。植民地化という暴挙に対する韓国民衆の、平和的な抵抗、その正当な抵抗を日本が軍事力という暴力で弾圧したという事実があることを忘れることは、絶対にできません。三・一独立運動が起こったのは、1919年、関東大震災の四年前でした。
昨年2023年、関東大震災100年にあたり、この事件をモチーフにした映画『福田村事件』が公開されました。森達也監督によって作られた、この映画は、劇映画です。フィクションの部分が多分に含まれています。映画の中では、虐殺に至るまでの、事件にかかわることになる人びと暮らしが描かれています。被害側も、加害側も、普通の人たちです。そして、虐殺が起こります。虐殺が起こる前、15名の行商人一行をとり囲む人びとの中で、議論が起こります。「この人たちは日本人だ。」「いや、朝鮮人だ。」「日本人だ」と主張する人たちは、そう主張することで、行商人一行を助けようとします。こうした議論を黙って聞いていた、行商人の親方が、大声で問いかけます。「朝鮮人なら殺してええんか!」一瞬の静寂。そして、静寂を破るかのように、親方の頭に鳶口が振りおろされます。乳飲みを背負った女性が手にする鳶口が、静かに振りおろされたのです。この女性のパートナーは、震災時、東京にいて、この時点で安否不明でした。デマに惑わされ、パートナーは、朝鮮人に殺されたと思い込んでいました。親方は、地面に倒れ込みます。こうして、虐殺は始まります。親方の問いかけへの、激しい拒絶反応のように、虐殺は続きます。
今年のキリスト教一致祈祷週間の聖書テキストは、ルカによる福音書10章25節-37節です。この中で、イエスは、「隣人を自分のように愛しなさい」という、よく知られている教えを説いておられます。この教えに対して、「ある律法の専門家」から、「わたしの隣人とはだれですか」という問いが出されます。映画に登場する行商人一行をめぐる議論に通じる問いです。あの時、「日本人ならば隣人だが、そうでなければ殺してもよい」という前提で議論がなされました。イエスは、この問いを受けて、「善いサマリア人」のたとえ話を語られます。そして、律法の専門家に問い返されます。「だれが隣人になったと思うか。」律法の専門家は、ここで、選択を迫られます。三人のうちのだれを選ぶか。三人のうちのだれと同じ行動をするか。このたとえ話には、「律法の専門家」は登場していません。だから、これから、この物語に加わるのです。律法の専門家は、サマリア人と行動をともにすることになります。サマリア人であるとか、ユダヤ人であるとかという違いを超えて、「追いはぎに襲われた人の隣人」となる選択をします。
私たちも、「行って、あなたも同じようにしなさい」という、イエスの招きに応えましょう。あらゆる違いを超えて、皆が隣人として、ともに歩んで行く。そんな世界になるように、同じ福音を信じる姉妹兄弟として、心を一つにして祈りましょう。同じ愛に結ばれて行動しましょう。
いつもの説教ならば、ここで終わります。しかし、「福田村事件」を知った私たちは、ここで、終わりにすることができません。私たちは、まだ、行商人の親方の、命をかけた問いかけに答えていません。「朝鮮人なら殺してええんか!」という問いに答えていません。私たちは、自分もサマリア人のようになろうと思うことで、安心することはできないのです。福音書のたとえ話に登場するのは、三人だけではありません。祭司、レビ人、サマリア人に加えて、「追いはぎ」、「宿屋の主人」、そして、「追いはぎに襲われた人」です。原文で、「追いはぎ」は、複数形となっていますから、このたとえ話には、六人を超える人たちが登場しています。ここで、私たちは、問われています。「あなたは今、この物語の中で、だれになっていますか。」私たちは、追いはぎになっていないでしょうか。追いはぎになって、だれかを傷つけていないでしょうか。だれかから奪っていないでしょうか。行商人一行を襲った人たちは、普通の人たちでした。国を守りたい、村を守りたい、家族を守りたいと思い、行動した人たちでした。私たちも、自分の大切なものを守るためにという理由で、「追いはぎ」になっていないでしょうか。
最後に、映画の中で出された、もう一つの問いかけを分かち合いたいと思います。映画の虐殺シーンで、竹槍で惨殺された若者が、息をひきとる前に、口にした問いかけです。「なんのために生まれてきたんだ。」行商人一行は、香川の被差別部落から来た人たちでした。この若者は、食事中も本を読むほど、熱心に学んでいました。差別のない社会が実現することを信じて、皆が隣人として大切し合える社会を作るために、誠実に生きていました。この若者は、差別のない社会、誰もが大切にされる社会を実現するために、生まれてきたのです。そして、震災前年の1922年3月3日に、京都市岡崎公会堂で、全国水平社が結成され、「水平社宣言」が採択されていました。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と謳っている宣言です。
「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」今年の聖書テキストは、この問いかけから始まるます。永遠のいのちを受け継ぐために、私たちは、日々、問い続けなければなりません。「なんのために生まれてきたんだ。」私たちは、互いに隣人となって、皆で幸せとなるために生まれてきました。一人で幸せになることはできません。皆で幸せになるのです。この真理を忘れないために、問いかけ続けましょう。「なんのために生まれてきたんだ。」
※この説教を作成するにあたり、辻野弥生『福田村事件-関東大震災・知られざる悲劇』(五月書房新社、2023年)を参考にした。
※「2024年キリスト教一致祈祷週間」冊子↓
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