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1月26日「年間第3主日」の聖書朗読と説教

  • kiotanblock
  • Jan 20
  • 9 min read

1月26日「年間第3主日」の聖書朗読と説教


 一場神父から上記説教等が届きましたので掲載します。


◆◆◆


京丹ブロックの皆様


いつもお世話になり、ありがとうございます。


1月26日「年間第3主日」の聖書朗読と説教をお送り致します。「ことばの祭儀」は、1月26日(日)午前7時に公開予定です。よろしくお願い致します。


寒い日が続いています。皆様、どうぞご自愛ください。皆様のためにお祈りしています。

一場


◆◆◆


【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)


https://www.youtube.com/channel/UCabRcWL-YVYvkpofce8Nptg


◆◆◆


〔1月26日/年間第3主日〕

【第一朗読/ネヘミヤ8・2-4a、5-6、8-10】



(ネヘミヤ記)


その日、*8・2*

祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。*3*

彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。


*4*書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立った。*5*

エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。*6*

エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。


次いで、レビ人が*8*神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。


*9*

総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。

*10*

彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」

【答唱詩編】


主よ、あなたは永遠のいのちのことば。

(詩編19)


*19・8*神の教えは完全で、魂を生き返らせ、

そのさとしは変わらず、心に知恵をもたらす。


*9*神の定めは、正しく、心の喜びであり、

そのみ旨は清く、目を開く。


*10*神のことばは正しく、代々に及び、

そのさばきは真実ですべて正しい。

【第二朗読/①コリント12・12-30】



(使徒パウロのコリントの教会への手紙)


皆さん、*12・12*体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。*13*

つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

*14*体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。


*15*足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。*16*

耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。*17*

もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。*18*

そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。*19*すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。

*20*だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。*21*

目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。*22*

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。*23*

わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。*24*

見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。*25*

それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。*26*

一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。


*27*あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。


*28*

神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。

*29*皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。*30*

皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。

【福音朗読/ルカ1・1-4、4・14-21】


アレルヤ、アレルヤ。貧しい人に福音を、捕らわれ人に開放を告げるため、神はわたしを送られた。アレルヤ、アレルヤ。

(ルカによる福音)


*1・1‐2*

わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。

*3*そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。*4*

お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。


さて、*4・14*イエスは〝霊〟の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。*15*

イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。


*16*イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。*17*

預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

*18*「主の霊がわたしの上におられる。

貧しい人に福音を告げ知らせるために、

主がわたしに油を注がれたからである。

主がわたしを遣わされたのは、

捕らわれている人に解放を、

目の見えない人に視力の回復を告げ、

圧迫されている人を自由にし、

*19*主の恵みの年を告げるためである。」


*20*イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。*21*

そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。



[説教]


今日は、「神のことばの主日」です。「神のことばを祝い、学び、広めること」ことにささげられる主日です。日本の教会は、2021年1月14日に、この主日を祝い始め、毎年の「年間第3主日」に、この主日を祝っています。


今日の第一朗読は、「律法の書に耳を傾け」る、神に愛されている人びとの姿を伝えています。この人びとに、書記官エズラは宣言します。「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」私たちが神のことばに耳を傾ける時、その時間は、聖なる時間になります。耳を傾ける者は、聖なる者となります。神のことばを聞く時、私たちは、神が示す生き方ができていないことに気づき、悲しみを覚えます。神のことばがもたらす、聖なる悲しみです。神に愛されているからこそ感じる、聖なる悲しみです。しかし、私たちは、いつまでも、「悲しんではならない」のです。神のことばが働いているからです。主が、私たちとともに生きておられるからです。私たちは、主がともにおられることを祝うよう励まされているのです。共同体の姉妹兄弟と、主が生きておられる喜びを分かち合うよう励まされています。


今日の第二朗読で、使徒パウロは、私たち教会が、「キリストの体であり、また一人一人はその部分」であると説いています。教会共同体は、神のことばを分かち合うところです。分かち合うことで、一人一人が、どのように神のことばに生かされているかを学ぶことができるのです。そして、共同体全体が、どのようにみことばに支えられているかを学ぶことができるのです。聖書について豊富な知識を持っていることは、素晴らしいことであり、時として、必要です。しかし、聖書の学問的な知識だけでは、不十分であり、生きているみことばを見失う危険があります。まわりの人が、どうように、みことばに生かされてかを謙虚に学ぶことが、最も大切な、実り多い学びなのです。そして、神のことばは、教会の枠を超えて、多くの人に働きかけます。ですから、私たちの学びは、終わることなく続いていくのです。この学びこそが、私たちの「力の源」なのです。


今日の福音は、「主の恵みの年を告げる」イエスについて伝えています。主は、「貧しい人に福音を告げ知らせるために」、私たちの真っただ中に来られました。「貧しい人」とは、一人では生きていけない人です。神に支えられ、まわりの人に支えられて生きている人です。その意味で、私たちは、誰もが貧しい人なのです。貧しい人であることを認めなければならないのです。自分が貧しいということを謙虚に認める時、主イエスが語られる御言葉は、「福音」となります。主の御言葉に、謙虚に心の耳を傾ける時、私たちは、神に愛されている貧しい人となることができます。そして、私たちが皆で、貧しい人となっていくことこそが、「神のことばを広めること」なのです。主が言われるように、神のことばは、私たちが自分の貧しさを認め、謙虚に「耳にしたとき、実現した」ということになるのです。


私たちは皆、貧しい者です。しかし、今日の世界では、貧しさが、特定の人びとに押しつけられています。多くの人びとを苦しめている貧困とは、暴力や不正によって押しつけられる貧しさなのです。人間として、毎日生きていくことを困難にしている貧しさなのです。こうした貧しさは、いのちを傷つける貧しさは、福音に反する貧しさなのです。私たちに今求められていることは、自分の貧しさを分かち合うことで、神の豊かさを分かち合うことなのです。今日の福音で、「主の恵みの年」が告げられます。主の恵みの年とは、貧しさを押しつけ合いを止めて、神からいただいている豊かさを分かち合う時なのです。誰一人自力で生きている者はなく、誰もが、まわりの人に支えられて生きているということを、謙虚に認める時なのです。神に、まわりの人に感謝をささげる時なのです。感謝をすることができない自分自身を見つめ、心から悔い改める時なのです。そして、私たちが歩んでいる聖年こそ、主の恵みの年なのです。神のことばが広がっていく年なのです。


今日は、「世界こども助け合いの日」です。今年のテーマは、「ひかりのこどもとしてあゆみなさい」です。この日、私たちは、ことばたちが、安心して助け合うことができる世界が実現するように、祈り、献金をささげます。こどもたちが、自分の貧しさを認め、助け合うことで、神からいただいている、良いものを分かち合うことができる世界が実現することを、心から願い求めています。私たちは今、「希望の巡礼者」として、聖年を過ごしています。こどもたちとともに、世界に大きな希望をもたらす「ひかりのこども」として、歩んでいきましょう。私たちの希望である、神のことばを広めていきましょう。



※教皇フランシスコの意向による「神のことばの主日」の制定について | カトリック中央協議会


https://www.cbcj.catholic.jp/2020/01/24/20015/


※「世界こども助け合いの日」について


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