10月27日「年間第30主日」の聖書朗読と説教
- kiotanblock
- Oct 21, 2024
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10月27日「年間第30主日」の聖書朗読と説教
一場神父から上記説教等が届きましたので掲載します。
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京丹ブロックの皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
10月27日「年間第30主日」の聖書朗読と説教をお送り致します。「ことばの祭儀」は、27日(日)午前7時に公開予定です。よろしくお願い致します。
気温が下がってきました。体調を崩さないように、くれぐれも、お気をつけください。皆様のために、いつもお祈りしています。
一場
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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〔10月27日/年間第30主日〕
【第一朗読/エレミヤ31・7-9】
(エレミヤの預言)
*31・7*主はこう言われる。
ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え。
諸国民の頭のために叫びをあげよ。
声を響かせ、賛美せよ。そして言え。
「主よ、あなたの民をお救いください
イスラエルの残りの者を。」
*8*見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し
地の果てから呼び集める。
その中には目の見えない人も、歩けない人も
身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。
彼らは大いなる会衆となって帰って来る。
*9*彼らは泣きながら帰って来る。
わたしは彼らを慰めながら導き
流れに沿って行かせる。
彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。
わたしはイスラエルの父となり、
エフライムはわたしの長子となる。
【答唱詩編/詩編126・1+2ab、2cd+3、4+6】
涙のうちに種まく人は、喜びのうちに刈り取る。
(詩編126)
*126・1*神が捕われびとをシオンにもどされたとき、
わたしたちは夢を見ている思いがした。
*2ab*わたしたちの顔がほほえみ、
口には喜びの歌が浮かれた。
*2cd*国々の民も叫んでいった、
「神は彼らに偉大なわざを行われた」と。
*3*神はわたしたちに偉大なわざを行われ、
わたしたちは喜びにあふれた。
*4*雨の後にネゲブの川が流れをとりもどすように、
神よ、わたしたちに栄えをもどしてください。
*6*種を手に涙を流して出て行く人は、
束をかかえ、喜びにあふれて帰ってくる。
【第二朗読/ヘブライ5・1-6】
(ヘブライ人への手紙)
*5・1*大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。*2*
大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。*3*
また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。*4*
また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。
*5*同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、
「あなたはわたしの子、
わたしは今日、あなたを産んだ」
と言われた方が、それをお与えになったのです。
*6*また、神は他の個所で、
「あなたこそ永遠に、
メルキゼデクと同じような祭司である」
と言われています。
【福音朗読/マルコ10・46-52】
アレルヤ、アレルヤ。わたしたちの救い主イエス・キリストは死を滅ぼし、福音によって生涯を照らしてくださった。アレルヤ、アレルヤ。
(マルコによる福音)
*10・46*
イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。*47*
ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。*48*
多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。*49*
イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」*50*
盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。*51*
イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。*52*
そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
[説教]
今日の集会祈願で、私たちは、「恵み豊かな神よ、わたしたちの信仰、希望、愛を強めてください」と祈りました。この祈りは、今日だけの祈りではなく、この一週間ともにささげる、私たち共同体の、共通の祈りです。私たちは、それぞれが置かれたところで、今日の福音を思い起こしながら、この祈りをささげ続けるのです。
今日の福音は、「バルティマイという盲人」のいやしの物語です。いやしとは、信仰、希望、愛が強められることであると言えます。そう考える時、私たちは今日、バルティマイとともに、主イエスにいやされることを願い求めていることになります。
「道端に座って」いるバルティマイは、「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めます。彼のいやしの始まりです。「憐れんでください」という叫びは、彼の信仰宣言です。彼は、イエスが救い主であると信じているからこそ、大胆に、自分の願いを声に出すのです。そして、「多くの人々が叱りつけて黙らせようとし」ますが、「彼はますます…叫び続け」ます。バルティマイの信仰は、ますます強くなっていくのです。主イエスは、彼の信仰に応え、彼を呼ばれます。信仰とは、私たちの一方的な思いではないのです。信仰は、主が私たちに応え、私たちを呼んでくださるという体験なのです。私たちは今日、バルティマイのように、主に呼ばれて、集まっています。この集まりこそ、信仰体験であり、いやしの体験なのです。
「道端に座って」いたバルティマイは、主イエスに呼ばれると、「上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来」ます。希望を失いかけていた日々が、希望に満ちた時に変わります。バルティマイは、着慣れた「上着を脱ぎ捨て、踊り上がって」、彼の希望であるイエスのところへと進んで行きます。そして、「何をしてほしいのか」という、主の問いかけに、はっきりと答えます。「目が見えるようになりたいのです」と答え、彼の希望を告げます。目が見えるようになることは、バルティマイにとって、実現が不可能なことでした。しかし今、それは実現可能なこととなり、彼の希望は強められます。「希望の巡礼者」である私たちも今日、バルティマイのように、今まで座っているところから立ち上がっています。今まで着てきた上着を脱ぎ捨て、新たな希望をもたらすキリストのところに来ています。今日、私たちが実現したい希望は何でしょうか。バルティマイのように、目が見えるようになりたいという希望をもっているならば、なぜ目が見えるようになりたいのでしょうか。他の希望を持っているならば、何のための希望でしょうか。
「道端に座って」いたバルティマイは、「すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従」います。実現した希望は、愛へと変わります。主からの愛を望んでいたバルティマイは、主への愛を生きるようになります。主とともに、受難への道を歩むことで、愛を強めていきます。受難への道を進まれる主を愛することは、主とともに歩む人々をも愛することです。道端に座って、人々の愛を求めていたバルティマイは、主に愛されて、いやされます。そして、人々を愛する者となります。愛する者となり、盲人バルティマイの、いやしの物語は終わります。私たちも、すでに、この豊かないやしを受けています。そして、いやしは一度で済むことではなく、何度もいやされ続けるのです。この世界に生きている私たちは、何度も見えなくなり、愛を生きることが難しくなるからです。自分を愛してくださる神が、愛してくれる人が見えなくなります。目の前にいる、愛を求めている人が見えなくなります。道端に座って、誰も愛してくれない、誰も私の愛をわかってくれないと嘆くことしかできなくなります。そんな時は、バルティマイのように、主の愛を信じて、愛せるようになれるはずだという希望を持って、心から叫びたいと思います。「主よ、愛を生きることができない私を憐れんでください。見えるようになりたいのです。愛せるようになりたいのです。」この叫びを、主は聞いたくださり、いやしてくださいます。何度でも、いやしてくださいます。
今日、10月27日、世界代表司教会議第16回通常総会が閉会します。この会議は、シノドスと呼ばれるています。「ともに歩む」という意味です。そして、今回の会議は、まさに、「ともに歩む、福音宣教する教会」になることを目指して、話し合いが持たれてきました。聖霊の導きを祈りながら、話し合われてきました。会議が閉会しようとしている今、私たちは、シノドスの体験によって、「見えるようになった」道を、バルティマイのように、主に従って歩むよう招かれています。この招きに応えて、歩んで行けるように、祈り求めたいと思います。この道は、教会が変わっていく道、受難の道です。そして、復活への道です。この道を、ともに歩んで行きたいと思います。
※シノドス第16回総会-第2会期の予想される内容 | カトリック中央協議会↓
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