12月15日「待降節第3主日」の聖書朗読と説教
- kiotanblock
- Dec 11, 2024
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12月15日「待降節第3主日」の聖書朗読と説教
一場神父から上記説教等が届きましたので掲載します。
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京丹ブロックの皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
12月15日「待降節第3主日」の聖書朗読と説教をお送り致します。「ことばの祭儀」は、12月15日(日)午前7時に公開予定です。よろしくお願い致します。
朝晩の冷え込みが厳しくなっています。体調を崩さないように、くれぐれもお気をつけください。皆様のためにお祈りしています。
一場
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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〔12月15日/待降節第3主日〕【第一朗読/ゼファニヤ3・14-17】
(ゼファニヤの預言)
*3・14*娘シオンよ、喜び叫べ。
イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。
娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。
*15*主はお前に対する裁きを退け
お前の敵を追い払われた。
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。
お前はもはや、災いを恐れることはない。
*16*その日、人々はエルサレムに向かって言う。
「シオンよ、恐れるな
力なく手を垂れるな。
*17*お前の主なる神はお前のただ中におられ
勇士であって勝利を与えられる。
主はお前のゆえに喜び楽しみ
愛によってお前を新たにし
お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」
【答唱詩編】
喜びに心をはずませ、救いの泉から水をくむ。
(イザヤ12)
*12・2*神はわたしの救い、わたしは信頼して恐れない。
神はわたしの力、わたしの歌、わたしの救い。
*4*神をたたえ、その名を呼ぼう。
神のわざをすべての民に伝え、その名の誉れを語り告げよう。
*5*神は不思議なわざを成し遂げられた。
神をほめ歌い、そのわざを世界にのべ伝えよう。
*6*イスラエルの聖なる方はお前たちの中で偉大、
シオンに住む者は声をあげて喜び歌え。
【第二朗読/フィリピ4・4-7】
(使徒パウロのフィリピの教会への手紙)
皆さん、*4・4*主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。*5*
あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。*6*
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。*7*
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
【福音朗読/ルカ3・10-18】
アレルヤ、アレルヤ。神の霊はわたしの上にある。貧しい人に福音を告げるため、神はわたしを選ばれた。アレルヤ、アレルヤ。
(ルカによる福音)
*3・10*そのとき、群衆はヨハネに、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。*11*
ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。*12*
徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。*13*ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
*14*
兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
*15*民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。*16*
そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
*17*そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
*18*ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
[説教]
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」使徒パウロは今日、主の名によって集まっている私たちに、主における喜びを分かち合うように呼びかけています。主における喜びを宣べ伝えるように励ましています。
使徒パウロが証ししているように、「主はすぐ近くにおられます。」待降節は、主イエスがすぐ近くにおられるという喜びを、共同体として、分かち合う時です。私たちは今、この喜びを、本当に感じているでしょうか。喜びの主日である今日、私たちは、この問いかけを真剣に受け止め、思い巡らしたいと思います。
今週の福音で、群衆は洗礼者ヨハネに、尋ねます。「わたしたちはどうすればよいのですか。」私たちも、群衆とともに、尋ねたいと思います。「主において喜ぶために、どうすればよいのですか。」ヨハネの答えは、はっきりとしています。自分だけが喜びを得ようとせず、まわりの人とともに、喜べ。自分の喜びを大きくするために、まわりの人を利用したり、犠牲にしたりするな。ヨハネは、喜びについての考え方を変えるように求めています。
私たちが生きている、今の、この世界では、喜びの奪い合いが起こっています。今与えられているものに喜びを感じて、満足することが許されません。もっと大きな喜びを得るように、休むことなく、働くように強いられています。他人より働いて、他人の喜びを奪うことではしか、喜びを得る道はない、生き残る道はないと思いこまされています。子どもたちは、今、友だちと遊ぶ喜びを取り上げられています。その代わりに、将来の喜びのためという理由で、意味を見出せない勉強を押しつけられています。学校は、仲間と生きる喜びを体験するところのはずです。しかし、今の学校で起こっていることは、喜びを得るための競争です。さまざまに形の喜びがあるはずなのに、喜びの大小が数字で表されています。喜びが、序列化されます。教師は、喜びについて生徒とともに考えること、生徒とともに成長することに喜びを感じることも許されていません。「わたしたちはどうすればよいのですか」と問うことさえできなくなっているのです。皆が平和に生きていくために、皆が喜びをもって生きていくために、「わたしたちはどうすればよいのですか」という問いかけは、絶対に必要です。しかし、こうした問いかけができない世界になっているのです。偽りの喜びを必死になって追い求めながら、本当の喜びを失いつつあるのです。私たちは、今こそ、何が本当の喜びかを考え、生き方を変えなければならないのです。
今日の集会祈願で、私たちは、「喜びの源である父よ」と呼びかけました。私たちの喜びはすべて、神から来ます。神から来る喜びは、奪い取る、奪い合う喜びではありません。皆で分かち合う喜びです。日々の小さな出来事に、神の大きな愛を見出せる喜びです。他人の優しさを感じることができる喜びです。神に、まわりの人に感謝できる喜びです。まわりの人の幸せを願い、祝うことができる喜びです。まわりの人のために、自分が犠牲になることができる喜びです。次世代の人たちのことを考えることができる喜びです。こうして、共同体として集まって、ともに祈ることができる喜びです。「わたしたちはどうすればよいのですか」と、神に尋ねることができる喜びです。
そして、今日の福音では、洗礼について述べられています。主イエスの名によって洗礼を受ける時、「聖霊」という、神のいのちが与えられます。喜んで生きていくためのいのちです。まわりの人に、本当の喜びを伝えながら生きていくためのいのちです。偽りの喜びを拒否して生きてためのいのちです。そのための苦難に耐えることができるいのちです。もちろん、この世界で生きている限り、苦難は、毎日のようにように訪れます。洗礼の恵みを忘れてしまうほどの出来事もあります。しかし、何があっても、神のいのちは生き続けます。永遠のいのちだからです。このいのちを信じて、歩んでいきたいと思います。今、神のいのちを生きることができなくても、必ず生きることができる時が来るという希望を持ち続けたいと思います。神のいのちという希望を持って、希望の巡礼者として歩んでいきたいと思います。人びとに神のいのちという希望を伝える巡礼者として、主イエスの再臨の時まで歩み続けたいと思います。
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