12月29日「聖家族」の聖書朗読と説教
- kiotanblock
- Dec 27, 2024
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12月29日「聖家族」の聖書朗読と説教
一場神父から上記説教等が届きましたので掲載します。
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京丹ブロックの皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
12月29日「聖家族」の聖書朗読と説教をお送り致します。「ことばの祭儀」は、12月29日(水)午前7時に公開予定です。よろしくお願い致します。
皆様、今年も大変お世話になり、本当にありがとうございました。皆様が良い年を迎えられますように、お祈りしています。
一場
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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〔12月29日/聖家族〕【第一朗読/サムエル上1・20-22、24-28】
(サムエル記)
エルカナの妻*1・20*ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。
*21*さて、夫エルカナが家族と共に年ごとのいけにえと自分の満願の献げ物を主にささげるために上って行こうとしたとき、*22*
ハンナは行こうとせず、夫に言った。「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう。」
*24*
乳離れした後、ハンナは三歳の雄牛一頭、麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、その子を連れてシロの主の家に上って行った。この子は幼子にすぎなかったが、
*25*人々は雄牛を屠り、その子を司祭エリのもとに連れて行った。*26*
ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。*27*
わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。*28*
わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。
【答唱詩編/詩編84・2+3、6+7、8+9】
しあわせな人、神をおそれ、主の道を歩む者。
(詩編84)
*84・2*すべてを治められる神よ、
あなたの住まいはうるわしい。
*3*わたしの魂は主の庭を慕い、
心とからだは生ける神にあこがれる。
*6*神よ、あなたによってふるいたち、
巡礼を志す人は、
*7*かれた谷を通り、そこを泉に変え、
はじめの雨がそこを祝福でおおう。
*8*尾根から尾根へと彼らはすすみ、
シオンで神を仰ぎ見る。
*9*万軍の神よ、わたしの祈りに心を留め、
ヤコブの神よ、耳を傾けてください。
【第二朗読/①ヨハネ3・1-2、21-24】
(使徒ヨハネの手紙)
愛する皆さん、 *3・1*
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。
*2*
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
*21*愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、*22*
神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。*23*
その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。*24*
神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった〝霊〟によって分かります。
【福音朗読/ルカ2・41-52】
アレルヤ、アレルヤ。神よ、わたしたちの心を開きあなたの子が語られることに心を向けさせてください。アレルヤ、アレルヤ。
(ルカによる福音)
*2・41*イエスの両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。*42*イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。*43*
祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。*44*
イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、*45*
見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。*46*
三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。*47*
聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。*48*
両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」*49*
すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」*50*
しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。*51*
それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。*52*
イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
[説教]
聖家族の祝日である今日、私たちは、すべての家族が聖家族であることを思い起こします。救い主キリストの家族だけが、聖家族なのではありません。ですから、聖家族の祝日は、すべての家族の祝日なのです。
今日の福音は、救い主キリストの家族の旅について伝えています。「過越祭」に参加するための巡礼の旅です。過越祭は、神の民が、神の導きによって、エジプトでの苦難から脱出した旅を思い起こし、神に感謝をささげる祭です。この脱出の旅は、過去の出来事ではなく、今も続いています。今の、この世界で、多くの人が、多くの家族が、さまざまな苦難を強いられています。そして、苦難から脱出しようと、今現在、旅を続けています。人間として生きるために、安心して、自由に生きることを求めて、家族のささやかな幸せを願って、過越の旅を続けています。私たちの救い主は、救い主の家族は、今、この脱出の旅を続けている人たちと、歩みをともにされています。降誕祭を祝っている私たちも、聖家族の一員として、この歩みに加わりたいと思います。今の苦難から脱出する時が、必ず訪れるという希望を分かち合いながら、ともに歩んでいきたいと思います。多くの人に苦難をもたらしている戦争、貧困、差別、虐待、環境破壊といった暴力の根絶を目指して、ともに歩んでいきたいと思います。すべての人と聖家族となって、希望の巡礼者としての歩みを続けていきたいと思います。
今日の第二朗読、ヨハネの手紙で、「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」と呼びかけられています。そして、神に深く愛されている人は、神の子です。神の子である私たちは、「互いに愛し合うこと」に喜びを感じます。愛し合えないことに、悲しみを感じます。愛し合いたいと、心から願います。皆が愛し合える日が来るはずだという、大きな希望を持ちます。
この喜び、悲しみ、願い、希望を分かち合う時、私たちは、聖家族となります。聖家族は、愛し合っている理想的な家族ではありません。愛し合おうとして、悩みながら歩んでいる家族なのです。
今日の福音は、愛について、悩んでいる聖家族の姿を伝えています。巡礼の旅をしているマリアとヨセフは、少年イエスが見つからず、悩みます。二人は、神殿の境内で、イエスを見つけます。マリアは、イエスに、自分の思いをぶつけます。「なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」イエスは、親の心配や悩みを理解しようとしません。「どうしてわたしを捜したのですか」と答ます。二人は、自分たちの子が言っていることが理解できません。二人の悩みは、さらに深くなります。おそらくイエスも、両親に理解してもらえず、悩んだのではないでしょうか。三人の家族が、愛し合うために、悩みながら、ともに成長していく。これこそ、本当の意味で互いに愛し合うということではないでしょうか。最初から正解があって、その通りに生きていくのではないのです。私たちの救い主キリストは、愛についての完璧な答えをもって、私たちのところに来られたのではないのです。私たちとともに、日々、愛について悩むために来られたのです。愛とは、愛し合うために、ともに悩みことなのです。悩みながら、日々変わりながら、深く、大きくなっていく愛、悩む愛こそが、聖家族の愛なのです。
愛について悩むことは、人間として生きていることの喜びです。家族がともに歩んでいくことの喜びです。そして、新たな家族が生まれることで、この喜びは、つながり、広がっていきます。このつながりと広がりこそ、私たちの希望です。しかし、今日の世界では、新しい家族が生まれることが、極めて困難になっています。愛について悩む時間が奪われています。多くの人にとって、今日の生活をどうするか、自分の将来がどうなるかといった悩みがすべてになっています。多くの人から、誰かとともに、時間をかけて、愛を大きくしていこう、ともに悩みながら生きていこうという意欲が失われています。
私たちは、こうした世界の中で、「希望の巡礼者」として、聖年の歩みを始めます。世界中の人びとが互いに愛し合う日が来るという、希望をもって、歩み始めます。すべての人が愛し合うようになるということが実現することは、極めて困難です。しかし、この希望の実現に向けて、ともに悩まなければ、本当の平和は訪れません。マリア、ヨセフ、イエスが、悩みながら、ともに旅をしたように、私たちも、聖家族となって、悩みを分かち合いながら、毎日の生活を巡礼の旅として、歩み始めましょう。希望は、決して欺くことがありません。
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