12月31日「聖家族」と2024年1月1日「神の母聖マリア」の朗読聖書と説教
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- Dec 26, 2023
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12月31日「聖家族」と2024年1月1日「神の母聖マリア」の朗読聖書と説教
一場神父から12月31日「聖家族」と2024年1月1日「神の母聖マリア」の朗読聖書と説教が届きましたので掲載します。
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小教区窓口の皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
12月31日「聖家族」と2024年1月1日「神の母聖マリア」の朗読聖書と説教をお送り致します。「ことばの祭儀」は、それぞれ、12
月30日(土)午後7時、1月1日(月)午前9時に公開予定です。
よろしくお願い致します。
今年一年、本当にありがとうございました。良い年をお迎えください。来年も、どうぞよろしくお願い致します。皆様のためにお祈りしています。
一場
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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〔12月31日/聖家族〕
【第一朗読/創世記15・1-6、21・1-3】創世記
その日、*15・1*主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。
「恐れるな、アブラムよ。
わたしはあなたの盾である。
あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
2アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」*3*
アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
4見よ、主の言葉があった。
「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
5主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
6アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
やがて、*21・1*主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、*2*
彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。*3*
アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付けた。
【答唱詩編】
心を尽くして神をたたえ、すべての恵みを心に留めよう。
詩編105
105・1神に感謝してその名をたたえよ。
諸国の民に神のわざを告げ知らせよ。
2賛美の歌を神に歌い、
そのすべての不思議なわざを語れ。
3b神をさがし求める者よ、心から喜べ。
4神にその力を求め、いつもその顔を慕い求めよ。
5神が行われた不思議なわざを思い起こせ、
救いのしるしとさばきのことばを。
6神のしもべ、選ばれた者よ、
7神のさばきは世界に及ぶ。
8a神は契約をとこしえに守られる。
10bイスラエルのための永遠の契約。
【第二朗読/ヘブライ11・8、11-12、17-19】ヘブライ人への手紙
皆さん、*11・8*
信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。*11*
信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。*12*
それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。
17信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。*18*
この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。*19*
アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
【福音朗読/ルカ2・22-40】
アレルヤ、アレルヤ。神は昔、預言者を通して先祖に語られたが、この終わりの時にはご自分の子を通してわたしたちに語られた。アレルヤ、アレルヤ。
ルカによる福音
2・22モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。*23*
それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。*24*
また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
26そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。*27*
シメオンが〝霊〟に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。*28*
シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
29「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
30わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
31これは万民のために整えてくださった救いで、
32異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
33父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。*34*
シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
35――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
36また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、*37*
夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、*38*
そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
39親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。*40*
幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
【説教】
「わたしたちが聖家族にならい、愛のきずなに結ばれて、あなたの家の永遠の喜びにあずかることができますように。」「聖家族」の祝日である今日、私たちがささげている願いです。
この集会祈願の中の「わたしたち」という言葉は、私たち教会共同体を指しています。「あなたの家」も教会共同体を意味しています。そして、「あなたの家」には、地上の教会だけでなく、天上の教会も含まれています。その意味で、「聖家族」とは、私たち教会共同体のことなのです。
「聖家族」は、これまで生きてきた教会、今生きている教会、これからも生き続ける教会のことです。教会の理想像でもなければ、それぞれの家族に押しつけられた規範でもありません。。今、神に愛されて生きている私たちが、聖家族なのです。私たち教会は、ただ神に愛されているという理由で、聖家族なのです。神に愛されているものは、神の愛のうちにあるものはすべて、「聖なるもの」なのです。立派で、清く正しいから、聖なるものではないのです。
今日の福音は、主なる神に献げられる幼子イエスの姿を伝えています。イエスの両親は、自分たちの命よりも大切な幼子をささげます。神に愛されている人は、神の愛に応えようとします。深く愛されていることを体験しているからこそ、その愛に応えたいと願うのです。両親は同時に、「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げ」ます。これは、貧しい人のささげものを表しています。マリアとヨセフは、神の大きな、豊かな愛に満たされて、人間としての貧しさを生きています。人間の集まりである教会は、愛がなければ生きられない、貧しい教会なのです。神の愛によってしか、豊かになれないのです。お金があっても、神への愛がなかったら、無に等しいのです。立派な聖堂であっても、神からの愛が分かち合われていなければ、単なる建物なのです。
福音には、シメオンという男性とアンナという女性が登場します。二人とも、神に愛されて生きてきました。そして、今、神の愛そのものである幼子イエスに出会います。すべてのいのちの救いを確信します。自分たちの後に続く人たちが、神に救われることを、心から喜び、神に賛美をささげます。二人は、神を愛し、すべての人を愛し続けきたのです。そして、今、自分たちの生涯が終わろうとしている時、福音を力強く宣言します。「わたしたはこの目であなたの救いを見た」という福音を、愛に満たされて、宣言します。アンナとシメオンも、「聖家族」のメンバーなのです。神に愛され、神を愛し、すべてのいのちを深く愛する聖家族のメンバーなのです。救いの福音を宣べ伝える聖家族なのです。
私たちは、救い主の誕生を祝うという、喜びの時を過ごしています。1月8日まで、クリスマスの喜びは続きます。この喜びを感じつつ、今日の福音が伝えている、シメオンの、マリアへの言葉を忘れないようにしたいと思います。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。-あなた自身も剣で心を刺し貫かれます-多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」この言葉は、幼子が経験することに受難、それにともなうマリアの苦難を預言しています。愛に応え、愛し続けることは、苦しむことです。愛が大きくなればなるほど、苦しみも、それだけ大きくなるのです。苦難を避けることは、愛を避けることなのです。「聖家族」は、愛に応えるために、愛し続けるために、苦しみ続ける家族なのです。苦しむことで、「たくましく」成長し、「知恵に満ち、神の恵みに包まれて」、ともに歩んでいく共同体なのです。
私たち教会は、「聖家族」です。聖家族の交わりです。福音を証しする聖家族です。さまざまな困難がある時こそ、神の愛を力強く証しする聖家族です。これからも、「聖家族」として、ともに歩んでいきましょう。神の家の永遠の喜びを分かち合いながら、歩み続けましょう。
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〔1月1日/神の母聖マリア〕
【第一朗読/民数記6・22-27】民数記
6・22主はモーセに仰せになった。
23アロンとその子らに言いなさい。
あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい。
24主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
25主が御顔を向けてあなたを照らしあなたに恵みを与えられるように。
26主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。
27彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう。
【答唱詩編】
神のみ旨を行うことは、わたしの心の喜び。
詩編67
67・2神よ、あわれみと祝福をわたしたちに。
あなたの顔の光をわたしたちの上に照らしてください。
3あなたのわざが世界に知られ、
救いがすべての国に知られるように。
4諸国の民はあなたをたたえ、
すべての民はあなたを賛美せよ。
5すべての国は、喜び歌え。
あなたは民を正しくさばき、諸国の民を導かれる。
7地は豊かに実り、
神はわたしたちを祝福された。
8地の果てに至るまで、神をおそれ敬え。
神はわたしたちを祝福された。
【第二朗読/ガラテヤ4・4-7】使徒パウロのガラテヤの教会への手紙
皆さん、*4・4*時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。*5*
それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。*6*
あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。*7*
ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。
【福音朗読/ルカ2・16-21】
アレルヤ、アレルヤ。神は昔、預言者を通して先祖に語られたが、この終わりの時にはご自分の子を通してわたしたちに語られた。アレルヤ、アレルヤ。
ルカによる福音
そのとき、羊飼いたちは、*2・16*急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。*17*
その光景を見て、彼らは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。*18*聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。*19*
しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。*20*
羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
21八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
【説教】
「〔羊飼いたちは〕急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、〔彼らは、〕この幼子について天使が話してくれたことを人びとに知らせた。」
新年最初の福音は、「羊飼いたち」の福音宣教から始まります。羊飼いたちは、主イエスの誕生という福音を、単なる情報として伝えるのではありません。目の前で起こっている出来事として分かち合うのです。今、体験していることの中に、福音を、福音の実現を見い出し、分かち合うのです。しかし、福音記者ルカは、羊飼いたちが、誰と分かち合ったかを伝えていません。羊飼いたちは、「人びと」と分かち合ったのです。そして、今、この福音を知らされている私たちも、「人びと」に加わっているのです。私たちは、今、羊飼いたちが宣べ伝える福音を分かち合っているのです。
「羊飼いたちの話」を「聞いた者」の中に、マリアがいました。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らし」ます。羊飼いたちの話に、心の耳を傾けます。そして、羊飼いたちの話の一つ一つの言葉を大切にします。単なる情報として消費するのではなく、自分の心の中で、福音として、豊かにしていきます。羊飼いたちの体験を自分の体験と重ね合わせます。自分にも起こっていることとして、羊飼いたちとともに喜びます。新たな年の始まりにあたり、私たちも、マリアのように、福音を「すべて心に納めて、思い巡ら」すように招かれています。思い巡らしながら、この一年を過ごすように、喜びのうちに過ごすように招かれています。
私たちは今日、このマリアという女性が、「神の母」であることを祝っています。神の母聖マリアは、神である御子イエスを産んだ人です。マリアが母となったおかげで、御子は人間となることがおできました。一人の人間として、私たちとともに、生きることができるようなられました。そして、主イエスは、今も、人間として生きておられます。そして、私たちは、人間として、人間のままで、救われています。救い主が人間として生きておられるので、私たちも人間として生きることができます。このことこそ、私たちの救いです。マリアが神の母であるという福音は、私たちが救われているという福音なのです。私たちは今日、この福音を、羊飼いたちとともに、宣べ伝えるよう招かれています。神の母聖マリアとともに、「すべて心に納めて、思い巡らし」ながら、この一年を過ごすように招かれています。
私たちは、人間として、救われています。しかし、私たちは今、人間であることの意味を問われています。昨年の10月、フランシスコ教皇は、気候危機についての、使徒的勧告『ラウダーテ・デウム』を発表し、その日本語訳が先月出されました。そして、今日は、「世界平和の日」です。この日の教皇メッセージのテーマは、「人工知能と平和」です。この二つの文書で、問われていることは、「人間とは何か」ということであると言えます。人間には、超えられない限界があります。しかし、最近の科学技術の進歩は、この限界を超えるように、私たちを駆り立てています。教皇は、『ラウダーテ・デウム』の中で、次のように述べています。「人工知能と最新の技術革新は、テクノロジーの助けを借りれば能力と可能性を無限に拡張できる、限界なき存在たる人間という考え方という考え方から出発しています。…テクノロジーによって拡張された能力が、『知識をもった人々、なかでもそれらを利用する経済力のある人々に、人類全体と全世界に及ぶ強大な支配権を与えてきた』ことに気づくとぞっとします。…力の増大がすべて人類の進歩だとはいえません。人口制限、原子爆弾投下、民族殲滅に用いられた、『見事な』諸技術について考えるだけで足りるでしょう。」
私たちは、ここで「思い巡ら」さなければなりません。救われるとは、限界なき存在たる人間になることか。私たちの救い主は、「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」という、限界がある人間として、お生まれになったのです。この乳飲み子に出会い、「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」。ここに、救いの喜びを見いだすことができます。キリストの平和があります。
私たちは、限界がある人間として、救われています。限界がある人間だからこそ、救われています。限界があることを認めるからこそ、この地球で、ともに生きていくことができます。主の降誕八日目である今日、限界がある人間として、神の母聖マリアとともに、降誕の福音を「心に納めて、思い巡らし」たいと思います。そして、この平和の福音を、羊飼いたちとともに、宣べ伝えていきたいと思います。
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