2月23日「年間第7主日」の聖書朗読と説教
- kiotanblock
- Feb 19
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2月23日「年間第7主日」の聖書朗読と説教
一場神父から上記説教等が届きましたので掲載します。
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京丹ブロックの皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
2月23日「年間第7主日」の聖書朗読と説教をお送り致します。「
ことばの祭儀」については、23日(日)午前7時の公開を予定していますが、動画作成アプリの不具合により、お届けできない場合があります。ご了承くださいますよう、お願い致します。
先週もお知らせ致しましたが、下記の文書が、日本カトリック司教協議会社会司教委員会から発行されています。是非お読みくださいますよう、お願い致します。下記のリンクからPDFでダウンロードできますが、紙版が必要な方は、一場までご連絡ください。
※社会司教委員会『すべてのいのちを守る教会をめざして — ハンセン病問題過ちを繰り返さないために』
厳しい寒さが続いています。皆様、どうぞご自愛ください。皆様のために、毎日お祈りしています。
一場
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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〔2月23日/年間第7主日〕【第一朗読/サムエル上26・2、7-9、12-13、22-23】
(サムエル記)
*26・2*その日、サウルは立ってイスラエルの精鋭三千を率い、ジフの荒れ野に下って行き、ダビデをジフの荒れ野で捜した。
*7*
ダビデとアビシャイは夜になって兵士に近寄った。サウルは幕営の中に横になって眠り込んでおり、彼の槍はその枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵士もその周りで眠っていた。
*8*アビシャイはダビデに言った。「神は、今日、敵をあなたの手に渡されました。さあ、わたしに槍の一突きで彼を刺し殺させてください。一度でしとめます。」
*9*ダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない。」
*12*
ダビデはサウルの枕もとから槍と水差しを取り、彼らは立ち去った。見ていた者も、気づいた者も、目を覚ました者もなかった。主から送られた深い眠りが彼らを襲い、全員眠り込んでいた。
*13*ダビデは向こう側に渡り、遠く離れた山の頂に立った。サウルの陣営との隔たりは大きかった。
*22*ダビデはサウルに言った。「王の槍はここにあります。従者を一人よこし、これを運ばせてください。*23*
主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。今日、主はわたしの手にあなたを渡されましたが、主が油を注がれた方に手をかけることをわたしは望みませんでした。」
【答唱詩編】
心を尽くして神をたたえ、すべての恵みを心に留めよう。
(詩編103)
*103・3*神はわたしの罪をゆるし、
痛みをいやされる。
*4*わたしのいのちを危機から救い、
いつくしみ深く祝福される。
*8*神は恵み豊かに、あわれみ深く、
怒るに遅く、いつくしみ深い。
*13*父が子どもをいつくしむように、
神の愛は、神をおそれる人の上にある。
*11*天が地より高いように、
いつくしみは神を恐れる人の上にある。
*12*東と西が果てしなく遠いように、
神は私たちを罪から引き離される。
【第二朗読/①コリント15・45-49)
(使徒パウロのコリントの教会への手紙)
*15・45*皆さん、「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。*46*
最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。*47*
最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。*48*
土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。*49*
わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
【福音朗読/ルカ6・27-38)
アレルヤ、アレルヤ。新しい掟をあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように。アレルヤ、アレルヤ。
(ルカによる福音)
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。*6・27*「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
*28*悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。*29*
あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。*30*
求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。*31*人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
*32*自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。*33*
また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。*34*
返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。*35*
しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
*36*あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。*37*
人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
*38*
与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
[説教]
「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」今日、私たちに与えられた福音です。この福音は、2015年12月8日から2016年11月20日まで祝われた「いつくしみの特別聖年」思い起こさせます。私たちは今日、希望の巡礼者として、あの時分かち合った、神のいつくしみを宣べ伝えるように招かれています。
天の父のようにいつくしみ深くなることは、単なる命令ではありません。真の幸せへの招きです。真の幸せを得るようにという励ましです。私たちは皆、幸せになれるという希望です。そして、この世界に真の平和が実現するための唯一の道です。「敵を愛しなさい」という、主イエスの招きに応えていくことが、平和への、すべてのいのちの救いへの道です。
しかし、私たちは、今の世界の現実を目のあたりにする時、いつくしみ深い者になることなど無理だと叫びたくなります。「敵を愛しなさい」という、いのちのことばが、死語同然にされています。もちろん、理不尽な暴力によって人生を台無しにされた人に、「敵を愛しなさい」とは言えません。加害者のために「祈りなさい」などと、とても言えません。しかし、それだけではありません。私たちは、さまざまな情報によって、敵でない人を敵と見なすように仕向けられています。悪口や誹謗中傷に時間やエネルギーを奪われ、ゆっくり祈る時間が奪われています。謝罪することが、相手の攻撃を避けるための手段となっています。他人の親切を、そのまま感謝することができなくなっています。
こうした世界の中で、希望の巡礼者として歩んでいる私たちは、どうすれば良いのでしょうか。私たちはまず、今日の福音を、希望のメッセージとして受け取りたいと思います。天の父がいつくしみ深い方であるように、私たちも皆、いつくしみ深い者になることができるという希望の福音です。希望は、すぐに、実現するものではありません。希望は、良いものです。良いものは、良いものだからこそ、実現に時間がかかります。悪いものは、すぐに実現します。一発の銃弾で、戦争は始まります。しかし、平和を回復するためには、長い話し合いが必要となります。忍耐の要る対話が求められます。一本の道を通れなくすることで、たくさんの人を飢えさせることができます。しかし、皆に食べ物を届けるためには、一人ひとりがいるところに通じる、多くの道を通らなければなりません。権力を持った者の一声で、皆を黙らせることができます。しかし、すべての人の声に聞こうとする時、たくさんの人が、時間をかけて聞かなければなりません。良いものが実現するためには、必ず困難がともなうのです。
希望は良いもので、私たちを欺きません。希望は、必ず実現します。希望の巡礼者は、希望が実現することを証しする者です。私たちは、敵を愛することができるという希望が実現すると信じています。今日の第二朗読で、使徒パウロは、復活の体が「霊の体」であると説いています。私たち体は皆、霊の体に変えられます。霊になるのではありません。体であり続けるのです。私たちの体は、悪を行うことができます。それと同時に、愛の業を行うことができます。「自然の命の体」が、神のいつくしみにより、「霊の体」に変えられていくのです。敵を愛する体へと変えられていくのです。愛されているだけでなく、愛することができる体、いつくしみ深い体へと変えられ、救いが完成するのです。少しずつ変えられていくのです。この少しずつ変えられいくことこそ、私たちの希望なのです。日々、出会う人に希望をもたらすのです。
私たちは、いつくしみ深い者となるために、霊の体となるために、日々、熱心に祈りたいと思います。皆で、ともに祈りたいと思います。祈れない人のために祈りたいと思います。祈れない時は、祈ってもらっていることを思い起こしたいと思います。祈ることこそ、人間としての幸せであることを証ししたいと思います。祈ることができるという喜びに支えられて、聖年の歩みを続けたいと思います。
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