2月26日「四旬節第1主日」の朗読聖書と説教
- kiotanblock
- Feb 21, 2023
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2月26日「四旬節第1主日」の朗読聖書と説教
一場神父から「四旬節第1主日」の朗読聖書と説教が届きましたので掲載します
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小教区窓口の皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
2月26日「四旬節第1主日」の朗読聖書と説教をお送り致します。
ことばの祭儀は、2月26日午前7時に公開予定です。よろしくお願い致します
四旬節が始まります。皆様が恵みに満ちた四旬節を過ごされますよう、お祈りしています。
一場
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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〔2月26日/四旬節第1主日〕
【第一朗読/創世記2・7-9、3・1-7】創世記
2・7主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。8
主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。9
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
3・1主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」2
女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。3
でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」4
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。5それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」6
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。7
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
【答唱詩編/詩編51・3+4、5+6cd、12+13】
あなたのいぶきを受けて、わたしは新しくなる。
詩編51
51・3神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、
豊かなあわれみによってわたしのとがをゆるしてください。
4悪に染まったわたしを洗い、
罪深いわたしを清めてください。
5わたしは自分のあやまちを認め、
罪はわたしの目の前にある。
6cdあなたがわたしをさばかれるとき、
そのさばきはいつも正しい。
12神よ、わたしのうちに清い心を造り、
あなたのいぶきでわたしを強め、新たにしてください。
13わたしをあなたのもとから退けず、
聖なるいぶきをわたしから取り去らないでください。
【第二朗読/ローマ5・12-19】使徒パウロのローマの教会への手紙
皆さん、5・12一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。13
律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。14
しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
15しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。
一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。16
この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。
17
一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
18そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
19一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
【福音朗読/マタイ4・1-11】
人はパンによるだけではなく、神の言葉によって生きている。
マタイによる福音
そのとき、4・1イエスは悪魔から誘惑を受けるため、〝霊〟に導かれて荒れ野に行かれた。2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。3
すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6
言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」
7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、9
「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。10
すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
【説教】
四旬節は、荒れ野を歩む時です。私たちは今、この世界という荒れ野を、主イエスとともに歩んでいます。荒れ野では、悪の誘惑を受けます。誘惑を誘惑として受け止め、誘惑を退けます。
「これらの石がパンになるように命じたらどうか。」これが、第一の誘惑です。石をパンに変えるとは、欲しいものを何でも手に入れることができるということです。神に祈る必要がなくなり、まわりの人に頼る必要もなくなるということです。一人で生きていけるようになるということです。誰とも言葉を交わさずに、欲しいものを、いつでも手に入れることができるということです。こうした誘惑に対して、主イエスは、お答えになります。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。神の口から出る言葉を耳にする時、私たちは、パンを与えてくださる神がおられることに気づきます。神の言葉に心を開く時、私たちは、パンを分かち合ってくれる仲間がいることに気づきます。生きていくためにパンは必要です。そして、このパンは、神が与えてくださるもの、まわりの人が分かち合ってくれるものなのです。石が変化したものではないのです。お金を払えば、いつでも手に入るものではないのです。この気づきによって、私たちは、誘惑を退けることができます。
第二の誘惑は、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」という誘惑です。高いところから飛び降りれば、けがをします。命が失われることもあります。けがをしたくなければ、飛び降りないことです。私たちは時として、何か悪いことが起こった時、神を、まわりの人を責めるだけで、自分は悪くないと思っていないでしょうか。主イエスは、「あなたの神である主を試してはならない」と答えておられます。神を試すとは、責任を負わないということです。人まかせにするということです。不平不満だけ言って、自分は何もしないことです。神はこんなひどい世界をなぜ造られたのかと嘆くだけで、目の前のゴミを拾わないということです。主なる神を試すのではなく、自分ができるよいことを実行する。主イエスとともに、まわりの人とともに、よいことをする。そうすることが、誘惑を退けることになります。
第三の誘惑は、富と権力です。富と権力を手にした者は、ほとんどの場合、次のような思いを抱きます。この世界を、まわりの者を、自分の思い通りに動かすことができる。まわりの者が皆、自分に頭を下げる。自分が一番で、まわりは誰も、自分にさからえない。この誘惑に負ける時、私たちは、悪に仕えることになります。まわりを自分の思い通りにする時、必ず、まわりを傷つけます。まわりのために良いことをしていると思い込んでいるなら、悲劇はさらに大きくなります。この誘惑の恐ろしさは、まわりの人に感謝できなくなることです。まわりの人の率直な思いに、謙虚に耳を傾けることができなくなることです。神の言葉も、自分に都合のいいようにしか聞こえなくなることです。「世のすべての国々とその繁栄ぶを見」る時、そこに自分しかいないことです。悪魔を除いては。主イエスは、この誘惑に対して、はっきりとお答えになります。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」この誘惑を退けるためには、神の言葉に耳を傾けるしかありません。神に祈り続けるしかありません。どんなに聞きたくなくても、まわりの人の声を聴くしかありません。自分が今していることは、何のためか、誰のためか。そう問いかけ続けるしかありません。
四旬節は、こうした三つの誘惑を受ける時です。そして、誘惑を誘惑として感じられることこそ、神の恵みなのです。神の大きな恵みが働いているのです。そして、神は、誘惑を退ける力も与えてくださるのです。私たちは、この荒れ野を、共同体として、ともに歩みます。ともに歩みながら、悪の誘惑を退けていきます。悪の誘惑は、大きいです。しかし、神の恵みは、それよりも、大きいです。比較にならないほど大きいです。この大きな恵みを、「神の口から出る一つ一つの言葉」を分かち合いながら、四旬節という荒れ野を、ともに歩んでいきましょう。
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一場 修
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