2022年11月20日(日) 「王であるキリスト」
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- Nov 20, 2022
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2022年11月20日(日) 「王であるキリスト」
一場神父から11月20日「王であるキリスト」朗読と説教が届きましたので掲載します。
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11月20日「王であるキリスト」朗読と説教
小教区役員窓口の皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
11月20日「王であるキリスト」の朗読箇所と説教をお送り致します。
「ことばの祭儀」の配信は、11月20日(日)午前7時の予定です。よろしくお願い致します
皆様のためにお祈りしています。一場
【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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《11月20日/王であるキリスト》
★第一朗読/サムエル下5・1-3
サムエル記
その日、5・1イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。2これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」
3イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。
★答唱詩編/詩編122・1+2、3+4ab、4cd+5
わたしたちは神の民、そのまきばの群れ。
詩編122
122・1「神の家に行こう」と言われて、
わたしの心は喜びにはずんだ。
2エルサレムよ、わたしたちは今、
おまえの門のうちに立っている。
3しげく連なる町、エルサレム、
すべての民の都。
4abそこにはイスラエルの部族、
神の民がのぼって来る。
4cdイスラエルのおきてに従い、
神に感謝をささげるために。
5そこにはさばきの座、
ダビドの家の座がすえられている。
★第二朗読/コロサイ1・12-20
使徒パウロのコロサイの教会への手紙
皆さん、わたしたちは、1・12光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝しています。13御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。14わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。15御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。17御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。18また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
★福音朗読/ルカ23・35-43
アレルヤ、アレルヤ。主の名によって来られるかたに賛美。わたしたちの父、ダビドの国に祝福がありますように。アレルヤ、アレルヤ。
ルカによる福音
そのとき、23・35議員たちはイエスをあざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
[説教]
今日は、年間最後の主日です。キリストの救いの完成を祝う日です。私たちは、もう救われています。「王であるキリスト」とは、「私たちは皆、救われている」という意味です。今日の福音は、「十字架につけられているキリスト」です。このキリストこそ、私たちの救いです。私たちは、今日、十字架上で実現している愛を信じるよう招かれています。この愛を信じる時、信じようと決心する時、私たちは救われます。
福音記者ルカが伝えているように、十字架のまわりに集まった人々は言います。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」「お前がユダヤ人の王なら、自分を救うがよい。」主イエスとともに「十字架にかけられていた犯罪人の一人」も言います。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」この人々は、「メシアだから、王だから、自分を救え」と言っています。「何でもできるのなら、他人を支配する力を持っているのなら、自分を優先しろ」と主張しています。この人たちは、「自分さえよければ、他人はどうなってもよい」という思いに支配されています。そう思わなければ、生きていけないと思いこんでいる人たちです。愛を信じていない人たちです。救いを拒否している人たちです。「救い」という言葉が繰り返されていますが、そこに救いはありません。
しかし、今日の福音で、一人だけ、キリストの愛を信じている人がいます。キリストとともに十字架にかけられている「もう一人の方」です。この人は、キリストについて、他の人たちとまったく異なることを言います。「この方は何も悪いことしていない。」この言葉は、キリストの救いを、十字架上で実現した愛を深く信じている者の信仰宣言です。キリストは、何も悪いことをされません。王であるキリストは、ご自分を優先されません。ただ、私たちを深く愛し、今も、十字架上におられます。すべての人が愛を信じるようになるまで、十字架にとどまり続けられます。
そして、この人は、「我々を救ってみろ」とか、「自分を救え」といった言葉を口にしません。ただ、静かに祈ります。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」「あなたの御国」とは、私たちの未来です。キリストの愛がすべてを包みこむ未来です。主イエスは、私たちのところに再び来られ、すべてのいのちは愛で満たされます。「思い出す」とは、過去のことを思い出すという意味ではありません。今起こっていることとして、体験するということです。ですから、ともに十字架にかけられている人の祈りは、次のような意味になります。「イエスは、この世界が、あなたの愛に包みこまれる時、私も、その愛で満たしてください。あなたのように愛せることで、愛の喜びを体験させてください。」
王であるキリストは、この心からの祈りに、はっきりとお答えになります。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」「楽園」、そこは、自分を優先する必要がないところです。他人の幸せを心から喜べるところです。安心して、愛し合えるところです。主イエスは、ともに十字架上で苦しむ仲間に、言われます。「あなたは、今、私と一緒に愛の喜びを体験している。あなたは、もう救われている。」
私たちは、今日、王であるキリストとともに十字架につけられている「もう一人の方」になるよう招かれています。「もう一人の方」になって、王であるキリストに、心からの祈りをささげるよう招かれています。キリストとともに十字架につけられて、祈るように励まされています。「イエスよ、今日も、私たちを思い出してください。私たちを思い出して、私たちが愛し合えるようにしてください。愛し合うことが難しい、今の世界という十字架上で、愛し合えるようにしてください。」私たちが、主イエスの愛を信じて祈り続けるならば、王であるキリストは、答え続けてくださいます。。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。あなたがたは、今、わたしと一緒に楽園にいる。」
そして、今日は、「世界青年の日」です。フランシスコ教皇は、この日のメッセージの中で、「神の神殿となり、旅する教会の姿、出向いて仕える教会、よい知らせを伝える教会の象徴となっている」聖母マリアについてのべています。青年たちに、マリアが、エリサベト訪問をしたように、旅をするように呼びかけています。まわりの人、特にさまざまな困難にある人のために生きるよう呼びかけています。私たちも、青年たちのこの歩みに加わりたいと思います。キリストから分かち合ってくださる、十字架の愛を信じて、青年たちの愛の歩みに加わりたいと思います。
※2022年 第37回「世界青年の日」教皇メッセージ↓
https://www.cbcj.catholic.jp/2022/11/04/25776/
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一場 修
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