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3月19日「四旬節第4主日」の朗読聖書と説教

  • kiotanblock
  • Mar 16, 2023
  • 7 min read

3月19日「四旬節第4主日」の朗読聖書と説教



 一場神父から「四旬節第4主日」の朗読聖書と説教が届きましたので掲載します


◆ ◆ ◆

小教区窓口の皆様


いつもお世話になり、ありがとうございます。


3月19日「四旬節第4主日」の朗読と説教をお送り致します。


ことばの祭儀は、3月19日午前7時に公開予定です。よろしくお願い致します


皆様のために、毎日お祈りしています。


一場


◆ ◆ ◆


【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)



◆ ◆ ◆


〔3月19日/四旬節第4主日〕

【第一朗読/サムエル上16・1b、6-7、10-13a】サムエル記


その日、主はサムエルに言われた。16・1b

「角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」


6彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。7

しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」


10エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」11

サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」

12

エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」

13サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。

【答唱詩編/詩編23・2+3、5、6】


主はわれらの牧者、わたしは乏しいことがない。

詩編23


23・2神はわたしを緑のまきばに伏させ、

いこいの水辺に伴われる。

3神はわたしを生き返らせ、

いつくしみによって正しい道にみちびかれる。


5あなたははむかう者の前で、

わたしのために会食をととのえ、

わたしの頭に油を注ぎ、

わたしの杯を満たされる。


6神の恵みといつくしみに

生涯伴われ、

わたしはとこしえに、

神の家に生きる。

【第二朗読/エフェソ5・8-14】使徒パウロのエフェソの教会への手紙


皆さん、5・8あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。9

ーー光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。ーー10何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。11

実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。12彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。13

しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。14明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。

「眠りについている者、起きよ。

死者の中から立ち上がれ。

そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

【福音朗読ヨハネ9・1、6-9、13-17、34-38】


わたしは世の光。わたしに従う人はいのちの光をもっている。

ヨハネによる福音


そのとき、9・1イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。6イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7

そして、「シロアム[『遣わされた者』という意味]の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。8

近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9

「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。


13人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。14イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。15

そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」

16

ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。

17

そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。


34彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。


35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。36

彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」37

イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」38彼〔は、〕「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた。



【説教】


今日の福音は、「生まれつき目の見えない人」のいやしの物語です。私たちは今日、「見る」、「見える」ということについて黙想するよう招かれています。


今日の第一朗読で、主なる神は言われます。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」主が言われるように、私たちは、ものごとを表面的に見て、すぐに判断しようとします。しかし、神は、私たち一人ひとりの心を、じっと見つめられます。じっくりと時間をかけて、判断されます。心を見ることは、時間がかかるのです。神は、いつもと言ってよいほど、なかなか答えをお示しになりません。それは、神が時間をかけて、すべてをご覧になっているからではないでしょうか。実際、サムエルはすぐに判断しようとしますが、神の答えは、最後に登場したダビデだったのです。


今日の福音朗読に登場する目の見えない人は、生まれつき目が見えませんでした。目が見えるようになるまで、時間がかかりました。主イエスと出会ってからも、見えるようになるまで、時間がかかりました。主は、この人がすぐに見えるようになさいませんでした。「唾で土をこねてその人の目にお塗りになった」のです。この人は、土を塗られた目を、自分で洗うことによって、はじめて見えるようになったのです。主の言葉を信じて、主が言われる通りに行なって見えるようになったのです。見えるようになった人は、見えるようになるまで時間がかかったのです。


この人のまわりの人々は、この出来事が見えませんでした。この出来事が示す神の心が見えませんでした。主イエスについて、「安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者がいました。安息日に込められた神の深い思いが見えていませんでした。ただ、土をこねるという表面的な行為だけを見て、それが安息日違反だと判断してしまったのです。すぐに決めつけてしまったのです。見えていなかったのは、まわりの人々だったのです。


長い間見えなかった人は、いやされた後も、時間をかけて、ものごとを見つめようとします。主イエスは、この人に問われました。「あなたは人の子を信じるか」と。この人は答えました。「その方を信じたいのですが」と。「人の子」とは、十字架上で、すべてのいのちの救いのために、すべての与え尽くされた、今も与え尽くしておられる主イエスのことです。いやされた人は、まだ、主イエスが見えていませんでした。十字架上で、すべてを与え尽くされている主イエスが、主の心が見えていませんでした。主は、この人に言われました。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と。この時、主にいやされた人は、目が見えなかった時の自分を見つめたはずです。目が見えるようになった自分を見つめたはずです。そして、自分の目の前におられる主を見つめたはずです。主にいやされた瞬間を見つめたはずです。時間をかけて、すべてを見つめたはずです。そして、「主よ、信じます」と言ったのです。「主よ、あなたが見えます」と言ったのです。


私たちが生きている世界は、時間をかけて、ものごとを見つめることをゆるしません。私たちは、与えられた問いに、すぐに答えるよう求められています。送られてきたメッセージにすぐに答えることが、常識と見なされています。メッセージを送ってくれた人を心を見つめる時間が与えられていません。時間をかけて見つめていたら、仲間外れにされてしまう世界なのです。しかし、時間をかけなければ、神の心は見えません。隣の人の心も見えません。言葉に込められた思いは見えません。沈黙に込められた愛は見えません。


こうした世界の中で、私たちは、洗礼を受けて生きています。生きようとしています。洗礼の水は、私たちの目を洗い続けます。私たちは、洗われた目で、時間をかけて、すべてのものごとを見るよう招かれています。私たちのことをいつも思い続けておられる神の心を見つめ続けるように招かれています。互いの心を見つめる合うよう、時間をかけて見つめ合うよう招かれています。洗礼は、日々、私たちの心の目を洗う恵みなのです。


--

一場 修




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