3月2日「年間第8主日」の聖書朗読と説教
- kiotanblock
- Feb 26
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3月2日「年間第8主日」の聖書朗読と説教
一場神父から上記説教等が届きましたので掲載します。
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京丹ブロックの皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
3月2日「年間第8主日」の聖書朗読と説教をお送り致します。今週も「福音朗読と説教」を、3月2日(日)午前7時に公開予定です。
3月5日(水)は「灰の水曜日」で、この日から四旬節が始まります。皆様が、この四旬節を、神の愛のうちに歩まれますようにお祈りしています。
寒暖差が大きく、体調を崩しやすい時です。どうぞご自愛ください。一場
※社会司教委員会『すべてのいのちを守る教会をめざして —
ハンセン病問題過ちを繰り返さないために』(下記のリンクから、PDF版がダウンロードできます。紙版が必要な方は、一場までお知らせください。)
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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〔3月2日/年間第8主日〕
【第一朗読/シラ書27・4-7】
(シラ書)
*27・4*ふるいを揺さぶると滓が残るように、
人間も話をすると欠点が現れてくるものだ。
*5*陶工の器が、かまどの火で吟味されるように、
人間は論議によって試される。
*6*樹木の手入れは、実を見れば明らかなように、
心の思いは話を聞けば分かる。
*7*話を聞かないうちは、人を褒めてはいけない。
言葉こそ人を判断する試金石であるからだ。
【答唱詩編】
たて琴をかなで、楽の音に合わせて、わたしは、神をほめうたう。
(詩編92)
*92・2*神よ、すべてを越えるあなたの名をたたえ、
あなたに感謝をささげることはすばらしい、
*3*あしたにあなたのいつくしみを、
夕べにまことをのべ伝え、
*4*たて琴をかなで、楽の音に合わせて、
わたしはあなたをほめうたう。
*13*神に従う人はなつめやしのように栄え、
レバノンの杉のようにそびえる。
*14*神の家に植えられた人は、
わたしたちの神の庭で栄える。
*15*年の経てもなお結び、
いつもいきいきと生い茂る。
【第二朗読/①コリント15・54-58】
(使徒パウロのコリントの教会への手紙)
*15・54*皆さん、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
「死は勝利にのみ込まれた。
*55*死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
*56*死のとげは罪であり、罪の力は律法です。*57*わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。*58*
わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
【福音朗読/ルカ6・39-45】
アレルヤ、アレルヤ。あなたがたはいのちのことばを保って、ともし火のように世を照らしなさい。アレルヤ、アレルヤ。
(ルカによる福音)
*6・39*そのとき、イエスは弟子たちに、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。*40*
弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。*41*
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。*42*
自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
*43*「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。*44*
木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。*45*
善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
[説教]
私たちは今日、すべてのいのちを大切にしてくださる神に願っています。「現代に生きる教会が人々に仕え、平和のために尽くすことができますように」と、心から願っています。
現代は、傷つけ合いの時代であると言えます。まわりの人のことを考える余裕などなく、必死になって、がんばって生きている毎日の中で、傷つけ合いは起こっています。がんばればがんばるほど、傷は深くなっていくようにさえ感じてしまいます。精神科の医師の宮地尚子さんの『傷つきのこころ学』という著書で、次のように述べられています。「いまの時代は、人間の心のあり方をめぐる環境に急激な変化が起き、これからもどう変化するかわからず、人々から気持ちの余裕を奪っています。心がすり減り、すり切れてしまい、周りの人への配慮をなくしてしまうこともあります。いつも落ち着かずイライラして、それが周りの人への攻撃的な言動につながることもあります。優しくありたいと思っているのに、つい相手に尖った物言いをしてしまうこともあるでしょう。次にしなくてはいけないことばかりが気になり、目の前にいる人を無視してしまったり、『心ここにあらず』でうわの空の返事をしたりしてしまうかもしれません。」私たちは、こうした傷つけ合いの中で、毎日を生きている人々に仕えるように招かれています。人々に仕えることで、希望の巡礼者としての歩みを続けていきます。
使徒パウロは今日、次のように述べています。「死のとげは罪であり、罪の力は律法である。」罪は、私たちに死をもたらします。律法は、死をもたらす罪を避けて、生きていくようにという招きです。ここで注意しなければならないことは、律法とは、皆がともに生きていくための道を示したものであるということです。律法を守ることができる者だけが生きることができ、守ることができない人は生きることはできない。そのように、私たちを、二つのグループに分けるものではありません。律法を忠実に守っている者が、さまざま事情により守ることができない人を攻撃するための手段ではありません。自分は守ることができ、守れない人を軽蔑することで、自分は救われていると自己満足を得るための手段ではありません。皆がともに救われ、ともに幸せになるために、律法は、私たちの愛の力を、罪の力ではなく、愛し合う力を強めるものなのです。パウロは、当時の律法が、愛の力になっていないと説いているのです。本来の律法とは、皆がともに生きるための愛の力であると説いているのです。そして、愛の力である律法は、現代でも、愛が力を失いつつある現代こそ、必要とされているのです。
愛の力を失わないために、私たちは、今日、主イエスが分かち合ってくださる福音に、心をの耳を傾けたいと思います。主は言われます。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」「目にあるおが屑」とは、単なる罪のことではありません。罪によって傷つき、痛みを感じていることです。だから、「おが屑を取らせてください」ということは、ある意味で、親切なことです。しかし、自分も罪に傷ついているということを認めないで、他人のおが屑を取ろうとする時、どうなるでしょうか。罪の痛みを考えず、罪を取り除こうとする時、その人をさらに傷つけることになります。「自分の目の中の丸太」とは、自分も罪に傷つき、痛みを感じているということです。主は、まず自分の傷に気づくように、自分の中にある痛みを認めるように、私たちを励ましておられるのです。そして、目のおが屑を、互いの痛みを感じながら、優しく、取り合うように、今日、私たち一人ひとりを励ましておられるのです。
特定の人を悪者にし、皆で攻撃するということが起こっています。尊い命を奪うほどの、激しい攻撃が起こっています。おが屑ではなく、目そのものが、人格そのものが攻撃されています。私たちはだれしも、罪を犯さなくても、傷つけ合わなくても生きていける世界、皆がともに生きていける世界を望んでいます。しかし、現実の世界は、次の標的にならないように、おびえて生きなければならない世界となっています。私たちは今日、こうした世界の中で生きている希望の巡礼者として、平和のために尽くすことを願っています。
希望の巡礼者である私たちは、皆がともに生きていける世界が実現することを信じています。主イエスは今日、次のように言っておられます。「悪い実を結び良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。」神に愛されている、すべてのいのちは、「良い木」です。だから必ず、「良い実」を結びます。良い実を結ぶ良い木という希望が、必ず実現することを信じて、歩んでいきましょう。人々に仕えながら、ともに歩んでいきましょう。
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