3月23日「四旬節第3主日」の聖書朗読と説教
- kiotanblock
- Mar 20
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3月23日「四旬節第3主日」の聖書朗読と説教
一場神父から上記説教等が届きましたので掲載します。
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京丹ブロックの皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
3月23日「四旬節第3主日」の聖書朗読と説教をお送り致します。「ことばの祭儀」は、3月23日(日)午前7時に公開予定です。よろしくお願い致します。
この23日、私たち司牧者は、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を過ごしたいと思います。皆様も、共同祈願の一つの意向として、共同体の祈りささげていただきますようお願い致します。教会、特に司牧者の回心のために、ともにお祈りくださいますようお願い致します。添付したPDFは、京都教区から届いた共同祈願の意向の例文です。
寒暖差が大きい時です。体調を崩さないように、くれぐれもお気をつけください。皆様のために、いつもお祈りしています。一場
※2025年「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたって 日本カトリック司教協議会会長呼びかけ
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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〔3月23日/四旬節第3主日〕
【第一朗読/出エジプト3・1-8a、13-15】
(出エジプト記)
そのころ、*3・1*
モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。*2*
そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。*3*
モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
*4*主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、*5*
神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」*6*
神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。*7*
主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。*8*
それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上る。」
*13*モーセは神に尋ねた。
「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
*14*
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
*15*神は、更に続けてモーセに命じられた。
「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。
これこそ、とこしえにわたしの名
これこそ、世よにわたしの呼び名。」
【答唱詩編】
心を尽くして神をたたえ、すべての恵みを心に留めよう。
(詩編103)
*103・3*神はわたしの罪をゆるし、
痛みをいやされる。
*4*わたしのいのちを危機から救い、
いつくしみ深く祝福される。
*6*神は正義のわざを行い、
しいたげられている人を守られる。
*7*神はその道をモーセに示し、
そのわざをイスラエルの子らに告げられた。
*8*神は恵み豊かに、あわれみ深く、
怒るにおそくいつくしみ深い。
*13*父が子どもをいつくしむように、
神の愛は、神をおそれる人の上にある。
【第二朗読/①コリント10・1-6、10-12】
(使徒パウロのコリントの教会への手紙)
*10・1*兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、*2*
皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、*3*皆、同じ霊的な食物を食べ、*4*
皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。*5*
しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。*6*
これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。*10*
彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。*11*
これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。*12*
だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
【福音朗読/ルカ13・1-9】
「神に立ち戻りなさい。神の国は来ている」と主はおおせになる
(ルカによる福音)
*13・1*ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。*2*
イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。*3*
決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。*4*
また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。*5*
決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
*6*そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。*7*
そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
*8*園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。*9*
そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
[説教]
四旬節は、悔い改めの時です。悔い改めて、新たに生き始める時です。
今日の第一朗読は、神がどのような方であるかを明らかにしています。神は、「『わたしはある』という方」です。「わたしはある」という言葉の意味は、私は、今ここに、いる、生きているという意味です。そして、私たちが信じている神は、私たち一人一人にとって、今ここにおられる、ともに生きておられる神なのです。時代を超えて、いつも、私たちとともにおられる神なのです。私たちの「先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」なのです。私たち一人一人を大切にしてくださる神なのです。
そして、神は、私たちを知っておられるのです。私たちが神を知る前に、私たちを知っていてくださる神なのです。私たちが生きている姿を「つぶさに見」、私たちの叫びを、私たちの祈りを「聞き」、私たちを知っておられる神なのです。私たちは皆、救いを求めています。本当の幸福を求めています。何が救いで、何が幸福かが分からなくても、求めています。分からないからこそ、求めているのです。神は、私たちが求めていることを知っておられます。求めているものを知っておられます。今日の第一朗読は、私たちが求めているものを、「乳と蜜の流れる土地」という言葉で表しています。乳が流れる時、私たちは生きるようになりなります。そして、蜜が流れる時、喜びを感じて生きるようになります。私たちは、生きるようになる時、喜びを感じて生きるようになる時、救われ、幸せになることができるのです。神は、本当の幸福を求めている私たちのところに「降って」来て、私たちを「乳の蜜の流れる土地」に、「導き上」ってくださる神なのです。
神は今、私たちとともにおられ、私たちが生きることを望んでおられます。本当の幸福を得ることを望んでおられます。この神の望みに応えて、救いについて、幸福について、真剣に考えることが、考え始めることが、「悔い改める」ということです。今日の福音で、暴力や事故によって犠牲になった人々のことが語られています。主イエスは、暴力や事故が起こった時、他人事としてとらえて、真剣に考えないことが、更に大きな不幸につながると警告しておられます。誰かに不幸が起こった時、その人を、自分「よりも罪深い者」と見なすことが、自分は違うと思い込むことこそが罪だと戒めておられるのです。コロナ禍の時のことを思い出しましょう。あの時、ウイルスに感染したことが明らかになった人が、罪人のように扱われていなかったでしょうか。すべての人が、ともに喜びをもって生きるようになるためには、皆で悔い改めるなければならないのです。この世界で起こっている暴力や事故を、自分の事として受け止め、どうすれば良いかを、ともに考えなければならないのです。ともに悩まなければならないのです。こうした悔い改めをする時、本当の祈りが出てくるのです。神は、この真剣な祈りを、私たちの心からの叫びとして、しっかりと聞いてくださるのです。
今日、教会の司牧に携わる者たちは、性虐待被害者のための祈りと償いを行うよう求められています。人々の救いのために奉仕する力を与えられた司牧者が、その力を人々を自分の思い通りにするために利用する時、そこに暴力が生じます。自分の欲望を満たすための性虐待は、こうした暴力です。この暴力が生じないために、教会全体が、自分の事として取り組む必要があります。「司祭の言う通りにすれば良い」とか、「被害者にも悪いところがあったのではないか」という思いや態度は、被害者にさらなる苦しみを与える二次加害になります。加害者を擁護することにはなります。虐待という犯罪を隠蔽することになります。私たちがめざす教会は、力の濫用による暴力が生じない教会です。すべての人が喜びをもって生きるために、自分に与えられた力を分かち合う教会です。そのために、司牧者は、信徒の皆様の協力、特に祈りが必要なのです。皆様が、自分にも関わりのあることとして、ともに考え、ともに悩み、ともに祈ってくださるならば、司牧者の悔い改めと新たな歩みの大きな力となるのです。
私たちは今、希望の巡礼者として歩んでいます。乳と蜜の流れる土地をめざして、苦しみや痛みに満ちた、この地上を歩んでいます。神が、今生きておられ、一人一人を大切にされていることを信じて歩んでいます。私たちが、互いを大切にし合うためには、どうすれば良いかを考え、悩みながら、ともに歩んでいます。そして、こうした悔い改めによって、悔い改めという「肥やし」によって、いつか「実がなる」という希望を抱いて歩んでいます。この希望を持って、ともに歩んでいきましょう。
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