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3月26日「四旬節第5主日」の朗読聖書と説教

  • kiotanblock
  • Mar 21, 2023
  • 7 min read

3月26日「四旬節第5主日」の朗読聖書と説教


 一場神父から「四旬節第5主日」の朗読聖書と説教が届きましたので掲載します


◆ ◆ ◆

小教区窓口の皆様


いつもお世話になり、ありがとうございます。


3月26日「四旬節第5主日」の朗読と説教をお送り致します。


「ことばの祭儀と黙想」は、3月26日午前7時に公開予定です。よろしくお願い致します


皆様のために、毎日お祈りしています。


一場

◆ ◆ ◆

【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)


◆ ◆ ◆


〔3月26日/四旬節第5主日〕

【第一朗読/エゼキエル37・12-14】エゼキエルの預言


37・12主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。13

わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。14

また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる。

答唱詩編/詩編130・1+2、5+6、7a+8


主は豊かなあがないに満ち、いつくしみ深い。

詩編130


130・1神よ、深いふちから

あなたに叫び、

2嘆き祈るわたしの声を

聞いてください。


5神はわたしの希望、心の望み、

わたしはみことばを待ち望む。

6夜明けを待ちわびる人にもまして、

わたしの心は主を待ち望む。


7aイスラエルよ、イスラエルよ、

主を待ち望め。

8主はすべての罪から

イスラエルを救われる。

【第二朗読/ローマ8・8-11】使徒パウロのローマの教会への手紙


皆さん、8・8肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。9

神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。10

キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、〝霊〟は義によって命となっています。11

もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

【福音朗読/ヨハネ11・3-7、17、20-27、33b-45】


わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる人は永遠に死ぬことはない。

ヨハネによる福音


11・3〔そのとき、ラザロの〕姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4

イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5

イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。7

それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」


17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。20

マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21

マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22

しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23

イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26

生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27

マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」


33b イエスは、心に憤りを覚え、興奮して、34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。35イエスは涙を流された。

36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37

しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。


38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39

イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40

イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41

人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42

わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44

すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。


45マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。



【説教】


今日の福音朗読は、主イエスがラザロを生き返らすという物語です。私たちは、ラザロの姿に、洗礼を受けた人、受けようとしている人の姿を重ね合わせます。ラザロは、私たちに洗礼の恵みを示してくれます。


ラザロは、死を体験しました。死は、受け入れがたいことです。ラザロの姉妹のマルタが、主イエスに率直な思いを告げています。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」この言葉に表れているように、死は避けたいことです。特に、自分が愛する者には、ずっと生きていてほしいと願うものです。主ご自身も、ラザロの死という現実に直面して、とり乱します。「涙を流され」ます。「わたしは復活であり、命である」と宣言された主も、涙を流されたのです。


自分が愛している人たちとともに、今の自分のままでいたい。そんな思いは、人間である以上、自然なことであり、悪いことではありません。しかし、今の自分に、今の人間関係にしがみついたら、どうなるでしょうか。まず、今持っているものを失うことを、恐れるようになります。まわりの誰かに奪われるのではないかと、疑うようになり、まわりの人を愛することが難しくなります。ひどい時には、まわりに対して暴力的になります。自分が生き残るために、まわりの人に死を求めます。権力や富にしがみついている者が、罪のない人たちの命を奪っている。少数の者たちのぜいたくな暮らしを守るために、多くの人たちの、あまりに多くの人たちの毎日の生活が壊されている。これが、今の世界で、毎日起こっていることです。死への恐れが、死をもたらしているのです。


ラザロは、墓の中で、「手と足を布で巻かれ…顔は覆いで包まれて」いました。今の自分にしがみつくことは、富や権力を守ろうとすることは、自分を布で巻き、自分を覆いで包むことなのです。自分にしがみついて生きようとして、墓の中に留まっているのです。生きていても、死んでいるのです。


洗礼の恵みは、「死んでも生きる」という恵みです。死ぬからこそ、生きることができるという恵みです。今までの自分が死に、新たな自分が生まれるという恵みです。今までの自分が死に続けることで、新たな自分が生き続けることができるという恵みです。今日の「解放を求める祈り」の言葉を用いれば、「まことのいのち」を生き続けることができるという恵みです。まことのいのちとは、愛を生きるために、自分が死に続けるということです。死ぬことで、愛を生き続けるということです。愛は、自分のいのちを与えることなのです。主は、この愛を、今、十字架上で示しておられるのです。


ラザロは、主イエスの「出て来なさい」という叫びに応えて、生き返ります。墓から出て来たラザロは、布で巻かれ、覆いで包まれていました。主は、ラザロのまわりの人に命じます。「ほどいてやって、行かせなさい」と。今までの自分にしばられていたラザロは、自由になります。自由になって、新たな歩みを始めます。主イエスとともに、十字架の道を行きます。日々、愛のために死に、新たな愛を生きるために生き返える道です。


洗礼を受けた人、これから受けようとする人も、ラザロとともに歩みます。「出て来なさい」という、主の叫びに応えて、今までの自分という墓から出て行きます。布や覆いをほどき合って、ともに歩み始めます。ラザロとともに、十字架の道を行きます。共同体として、ともに、真の愛への道を歩み続けます。主イエスは、はっきりと言われます。「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」主の愛を信じて、生きている者の愛は、決して死ぬことはないのです。実際、愛は生きています。日々新たになっていく愛は、生き続けています。愛が生き続いていると信じることが、キリストの復活、そして、私たちの復活を信じることなのです。洗礼がもたらすいのちを信じることなのです。洗礼がもたらすいのちを生きることなのです。

--

一場 修


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