4月21日「復活節第4主日」の聖書朗読と説教
- kiotanblock
- Apr 16, 2024
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4月21日「復活節第4主日」の聖書朗読と説教
一場神父から上記説教等が届きましたので掲載します。
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小教区窓口の皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
4月21日「復活節第4主日」の聖書朗読と説教をお送り致します。「ことばの祭儀」は、4
月21日(日)午前7時に公開予定です。また、「世界召命祈願の日」の教皇メッセージのリンクを添付致しました。
よろしくお願い致します。
季節の変わり目です。体調を崩さないように、くれぐれもお気をつけください。皆様のためにお祈りしています。
一場
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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〔4月21日/復活節第4主日〕
【第一朗読/使徒言行録4・8-12】
(使徒たちの宣教)
4・8そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、*9*
今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、*10*
あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。
11この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。*12*
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
【答唱詩編/詩編118・1+2、16+17、22+23】
きょうこそ、神が造られた日、喜び歌え、この日をともに。
(詩編118)
118・1恵み深い神に感謝せよ。
そのあわれみは永遠。
2イスラエルよ、叫べ。
「神のいつくしみは絶えることがない。」
16「神の右の手は高く上がり、
その右の手は力を示す。」
17わたしは死なず、わたしは生きる、
神のわざを告げるために。
22家造りの捨てた石が、
隅の親石となった。
23これは神のわざ、
人の目には不思議なこと。
【第二朗読/①ヨハネ3・1-2】
(使徒ヨハネの手紙)
3・1
愛する皆さん、御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。
2
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
【福音朗読/ヨハネ10・11-18】
アレルヤ、アレルヤ。わたしはよい牧者。わたしは羊を知り、羊はわたしを知っている。アレルヤ、アレルヤ。
(ヨハネによる福音)
そのとき、イエスは言われた。*10・11*「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。*12*
羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。(狼は羊を奪い、また追い散らす。)*13*
彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。*14*わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。*15*
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。*16*
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。*18*
だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
【説教】
今日は、「世界召命祈願の日」です。召命とは、神が、私たち一人一人を呼んでくださることです。そして、私たちが、神の呼びかけに応えて、生きていくことです。神とともに生きていくことです。私たちは今日、こうしてともに集まり、神の呼びかけに感謝しています。感謝して、喜びのうちに、それぞれに与えられている道を歩んで行けるよう祈ります。喜びのうちに、召された生き方を歩み続けられるよう祈ります。互いに祈り合います。
今日の第二朗読で、使徒ヨハネは、はっきりと述べています。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」私たちは皆、「神の子」と呼ばれています。神に愛されているからです。立派な行いをしているから、神の子なのではありません。立派な行いができるとしたら、神に愛されているからなのです。神に愛されるように生きるのではありません。神に愛されているから、毎日を生きるのです。そして、神の愛とは、神からの呼びかけです。私たちは、日々この呼びかけに応えて生きているのです。召命を生きているのです。「神の子」という召命を生きているのです。神の呼びかけに応える生き方は、人それぞれですが、皆同じ、「神の子」なのです。
神からの呼びかけを知るために、私たちは祈ります。今日の福音で、主イエスは、次のように言っておられます。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」私たちは、祈ることで、主を知ることができます。主が私たち一人一人を愛しておられることを知ることができます。主の呼びかけという愛を知ることができます。どのような生き方をしていても、そこに祈りがあれば、召命を生きていることになります。召命とは、祈りながら生きていくことなのです。祈りながら、「神の子」のいのちを生きていくことなのです。
私たちが祈る時、神は、必ず聞いてくださいます。私たちのすべてを知ってくださいます。良い羊飼いであるイエスは、今日、私たち一人一人のために、「命を捨てる」と言っておられます。主は、今も、生きておられます。生きておられて、ずっと、私たちの祈りを聞き続けておられます。御自分の時間をすべて犠牲にして、私たちの祈りを聞くために、生きておられます。私たちの祈りを聞くために、「命を捨て」続けておられます。私たちも、主の「声」を聞きたいと思います。聖書の御言葉を読むことで、共同体として集まり、主の御言葉を分かち合うことで、聞きたいと思います。共同体の姉妹共同体を通して語られる主に耳を傾けたいと思います。困難な状況に置かれてびとの叫びを、主御自身の声として聞きたいと思います。召命とは、神の声に、まわりの人の声に耳を傾けながら、生きていくことなのです。時間がかかっても、耳を傾け合いたいと思います。私たちは、耳を傾け合うことをやめた時、ともに生きていくことができなくなります。愛されていることを忘れ、愛することができなくなります。神の子として、生きることができなくなります。
神の呼びかけに応える生き方は、さまざまです。しかし、この日のための、教皇メッセージで述べられている通り、私たちは皆、「よりよい未来に向かおうとし、その道すがら、よりよい未来を築くことに全力を尽く」します。このようにして、私たちは、「希望の巡礼者」という召命を生きることになります。来年、私たちは、聖年を祝います。「希望の巡礼者」は、聖年のテーマです。そして、今年は、「祈りの年」とされています。私たちは、希望があるから、祈ります。祈り続ける限り、希望は失われません。私たちは、共同体として、祈り続けています。「ともに祈る」という召命を生きています。何があっても、ともに祈ることができるという、大きな希望を証ししています。「希望の巡礼者」として、祈り続けながら、歩んでいきましょう。それぞれが置かれたところで、「希望の巡礼者」として生きていけるように、良い羊飼いであるイエスに願いましょう。
※ 2024年「第61回世界召命祈願の日」教皇メッセージ(2024.4.21) | カトリック中央協議会↓
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