4月6日「主の晩さんの夕べのミサ」の朗読と説教
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- Apr 2, 2023
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Updated: Apr 4, 2023
4月6日「主の晩さんの夕べのミサ」の朗読と説教
一場神父から4月6日「主の晩さんの夕べのミサ」の朗読と説教が届きましたので掲載します
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小教区窓口の皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
をお送り致します。
「聖木曜日 晩の祈り」は、4月6日午後7時に公開予定です。よろしくお願い致します
皆様のために、毎日お祈りしています。
一場
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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〔4月6日/主の晩さんの夕べのミサ〕
【第一朗読/出エジプト記12・1-8、11-14】出エジプト記
その日、12・1エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。2「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。3
イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。4
もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。5
その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。6
それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、7
その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。8そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。
11それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。12
その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。
13
あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。
14
この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。』」
【答唱詩編/詩編116・12+13、15+16b、17+18】
このパンを食べ、この杯を飲み、わたしは主の死を告げ知らせる。
詩編116
116・12神が与えてくださったすべての恵みに、
どのようにこたえようか。
13わたしは救いの杯をささげ、
神の名を呼び求めよう。
15神を敬う人の死は、
神の前にとうとい。
16b神よ、わたしはあなたに仕え、
あなたはわたしを救われる。
17わたしは感謝のいけにえをささげ、
神の名を呼び求めよう。
18すべての民の前に進み出て、
神に立てた誓いを果たそう。
【第二朗読/①コリント11・23-26】使徒パウロのコリントの教会への手紙
皆さん、11・23わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、24
感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。25
また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
26だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
【福音朗読/ヨハネ13・1-15】
新しい掟をあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように。
ヨハネによる福音
13・1過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。2
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。3
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、4
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。6
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。7
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。8
ペトロが「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
9そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」10
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」11
イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
12さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。13
あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。14
ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。15
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
【説教】
主の晩さんの夕べのミサは、日没後に行われることになっています。主の晩さんが行われるところは、真の光キリストに照らされていますが、外は闇の中にあるからです。
主の晩さんが行われているところとは、どこでしょうか。主の晩さんの夕べのミサという典礼が行われているところだけでしょうか。そんなことはありません。この典礼が行われていないところでも、主の晩さんが行われています。実際、福音記者ヨハネが伝えているのは、「食事の席から立ち上が」られた主イエスの姿です。
主イエスは、食事の席から立ち上がり、「たらいに水にくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始めらた」のです。イエスが属した古代ユダヤ人社会では、主人の足を洗うのは奴隷の仕事でした。奴隷は、主人が生きていくために、最も必要とされていることを行なっていました。奴隷がいなければ、主人は生きていくことができませんでした。主イエスは、ここで、徹底して仕える者となられたのです。
主イエスは、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれ」ます。だから、弟子たちの足を洗われます。弟子たちの前にひざまずいて、洗われます。これが、弟子たちをこの上なく愛し抜かれる主イエスの姿です。愛そのものである主イエスです。
弟子たちの足を洗い続ける主イエスに、弟子の一人であるペトロは、言います。「わたしの足など、決して洗わないでください。」ペトロは、主に深く愛されているのに、主の愛を理解できません。私たちも、ペトロと同じく、主イエスの弟子ですが、主の愛の大きさ、深さを理解できません。主の愛について、語り尽くすことはできません。しかし、理解できなくても、主が私たちを愛しておられるということを信じたいと思います。主の愛を信じて、生きる時、そこが、主の晩さんが行われている場所になるのです。福音には、「清い」という言葉が出てきています。「清い」とは、愛を信じていることであるといえます。愛を信じる時、私たちは、清い者となるのです。主を裏切ったユダは、主の愛を信じることができなかったのです。
主イエスの愛を信じている弟子たちに、主は、愛の掟を与えられます。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」という掟です。主イエスは、足を洗うという具体的な行いで、弟子たちを愛されました。愛するということは、具体的な行いで実現します。毎日の行いで実現します。「愛している」という言葉だけでは、愛は実現しません。愛の言葉には、愛の行いがともないます。足を洗うという行いは、愛の行いの一つです。他にも、いろいろな愛の行いがあります。時として、何もしないことが、愛になることがあります。さまざまな形の愛が実現しているところ、そこが、主の晩さんが実現しているところなのです。
そして、私たちは、「互いに」という言葉を大切にしたいと思います。主イエスは、ただ、誰かの足を洗いなさい、誰かを愛しなさいと言われているのではありません。自分を愛してくれる人の愛を信じて、愛してもらいなさい。隣りにいる人の愛を信じなさい。そう命じておられるのです。私たちは、主に深く愛されている者として、互いの愛を信じて生きるよう励まされいるのです。隣りの人の愛を完全に理解できなくても、その人は、私とは違う愛し方で、私を愛してくれている。そのように愛を信じる時、互いに信じ合える時、主の晩さんが行われているのです。
私たちが生きている世界では、愛を、互いの愛を信じることが困難になっています。その意味で、闇に覆われています。私たちは、主イエスに深く愛されている弟子です。私たちは、主の晩さんを実現していくことで、この世界に、キリストの愛の光、愛の光をもたらすよう招かれています。それぞれが生活しているところで、主の晩さんを実現していくように招かれているのです。
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一場 修
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