4月9日「復活の聖なる徹夜祭」と「復活の主日(日中)」の朗読と説教
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- Apr 4, 2023
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4月9日「復活の聖なる徹夜祭」と「復活の主日(日中)」の朗読と説教
一場神父から4月9日「復活の聖なる徹夜祭」と「復活の主日(日中)」の朗読と説教が届きましたので掲載します
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小教区窓口の皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
4月9日「復活の聖なる徹夜祭」と「復活の主日(日中)」の朗読と説教をお送り致します。
「ことばの祭儀」は、それぞれ、4月8日(土)午後7時、4月9日(日)午前7時に公開予定です。よろしくお願い致します
恵みに満ちた復活祭を迎えらますよう、皆様のためにお祈りしています。
一場
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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〔4月9日/復活の聖なる徹夜祭〕
【使徒書の朗読/ローマ6・3-11】使徒パウロのローマの教会への手紙
皆さん、6・3あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。4
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
5もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。6
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。7
死んだ者は、罪から解放されています。8わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。9
そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。10
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。11
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
【福音朗読/マタイ28・1-10】
アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。
マタイによる福音
28・1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2
すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3
その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。5
天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6
あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7
それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
8婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9
すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10
イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤヘ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
【説教】
「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」
主イエスを納めた墓を見に行った二人の女性は、天使の言葉、復活の福音を信じました。そして、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」のです。主イエスの復活は、女性たちに大きな喜びをもたらしました。女性たちは、一刻も早く、この喜びを分かち合いたいという思いに駆られ、走り出しました。私たちも、この女性たちのように、大きな喜びに満たされて、復活の福音を告げ知らせたいと思います。主イエスの弟子たちとは、私たちが復活の良い知らせを告げ知らせる人たちのことなのです。私たちと、復活の喜びをともにする人たちなのです。
主イエスの復活とは、大きな喜びが伝わっていくこと、広がっていくことです。私たちは、コロナ禍にあって、感染すること、広がっていくことを恐れ、その防止に努めてきました。私たちは、まだ、その恐れの中にあります。しかし、恐れながらも、復活の喜びを感じましょう。復活の喜びを分かち合いましょう。
復活の福音は、私たちだけで、告げ知らせることはできません。私たちは、復活された主に従って、主とともに告げ知らせます。走り始めた女性たちの行く手に、主イエスが立っておられます。私たちが、宣教の歩みを始める時、主は、私たちとともにおられます。走り出す必要はありません。無理をして、外に出る必要もありません。まず、静かに祈りましょう。すべての人が、すべてのいのちが、主の復活の喜びに包まれますようにと祈りましょう。心を込めて、祈りましょう。その時、復活の主は、私たちとともにおられます。主がともにおられから、祈ることができると気づきます。気づいて、喜びに満たされます。
女性たちの行く手に立たれた主は、女性たちに、「おはよう」と言われました。この言葉は、単なる朝のあいさつではありません。「喜びなさい」という呼びかけです。「喜びのうちに、ともに新たな歩みを始めよう」という招きの言葉です。この言葉は、私たちにも向けられています。主イエスとともに、喜びの福音を告げ始める時です。互いに、「おはよう」とあいさつし合って、ともに歩み始めましょう。
そして、私たちは、「ガリラヤへ行くように」招かれています。ガリラヤ、そこは、あの群衆がいるところです。主を十字架にかけて殺してしまった群衆がいるところです。群衆は、イエスを殺しましたが、今でも、福音を求めています。ガリラヤは、群衆と福音を分かち合うところです。ガリラヤは、主イエスの福音宣教の原点です。今日、私たちも、福音を求めている人たちに、福音を告げ知らせるよう招かれています。私たちが、福音を告げ知らせなければならない人は、どこにいるでしょうか。福音を拒否している人こそ、福音を最も必要としている人です。今は、その人と福音を分かち合うことは無理かもしれません。しかし、福音を分かち合う日が来ますように、祈ることはできます。ガリラヤは、何もできないと嘆くところではありません。ガリラヤは、祈りの場所なのです。
ガリラヤは、行ったことがない場所ではありません。イエスの弟子たちは、ガリラヤをよく知っていました。しかし、弟子たちは、ガリラヤのことを、本当に知っていたのでしょうか。私たちも、福音を宣べ伝えるために、知らない場所に行く必要はありません。自分がよく知っているところから、宣教を始めたいと思います。本当に知っているのだろうかと問いかけながら、新たな心で、福音宣教を始めたいと思います。身のまわりの物事を当たり前だと思わず、新たな発見をするつもりで、見回してみましょう。何も変わらないと思わず、何が変わっただろうか。そんな思いをもって、見回してみましょう。何か見つかるはずです。そして、変わった自分に出会うはずです。復活したキリストに出会うはずです。
私たちの復活祭は、5月28日の聖霊降臨まで続きます。この50日間、共同体として、復活のキリストとともに歩んで行きましょう。私たちのガリラヤで、復活の福音を分かち合いましょう。
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〔4月9日/復活の主日(日中)〕
【第一朗読/使徒言行録10・34a、37-43】使徒たちの宣教
その日、10・34aペトロは口を開きこう言った。37
「あなたがたはこのことをご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。38
つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。
39わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、40
神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。41
しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。42
そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
43また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」
【答唱詩編/詩編118・1+2、16+17、22+23】
きょうこそ神が造られた日、喜び歌え、この日をともに。
詩編118
118・1恵み深い神に感謝せよ。
そのあわれみは永遠。
2イスラエルよ、叫べ。
神のいつくしみは絶えることがない。
16神の右の手は高く上がり、
その右の手は力を示す。
17わたしは死なず、わたしは生きる。
神のわざを告げるために。
22家造りの捨てた石が、
隅の親石となった。
23これは神のわざ、
人の目には不思議なこと。
【第二朗読/コロサイ3・1-4】使徒パウロのコロサイの教会への手紙
皆さん、3・1あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。2
上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。3
あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。4
あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
【福音朗読/ヨハネ20・1-9】
アレルヤ、アレルヤ。わたしの過越、キリストはほふられた。主のうちにともに喜び楽しもう。アレルヤ、アレルヤ。
ヨハネによる福音
20・1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2
そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5
身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6
続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7
イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
【説教】
復活祭が始まりました。復活された主は、私たちを、復活の喜びで満たしてくださいます。私たちは、この喜びのうちに、50日間の復活祭を歩んで行くように招かれています。
「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」今日の第二朗読の使徒パウロの言葉です。この招きに応えて、歩んで行くことが、私たちの復活です。そして、この歩みの中で体験する喜びが復活の喜びです。「上にあるものを求める」とは、復活されたイエスを、復活の主の生き方を求めるということです。この世界中の中で生き続けながら、復活のキリストとともに生きることを求めるということです。
私たちは、復活のキリストを求める歩みを、一人で歩むのではありません。共同体の姉妹兄弟とともに歩みます。今日の福音は、復活のキリストを求めて歩み始める共同体の物語を伝えています。
まず、マグダラのマリアが登場します。マリアは、主がおられないことに気づきます。おられるはずのところにおられない。この気づきを、共同体のメンバーに伝えます。主がおられないという知らせを受けて、共同体は、主を求める旅を始めます。マリアの分かち合いを受けて、二人の弟子が、歩み始めます。
弟子の一人は、先に墓に着き、「亜麻布が置いてあるのを」発見します。そして、もう一人の弟子を待ちます。自分一人で進んで行くのではなく、ともに歩むために待ちます。そして、後から来た弟子は、「イエスの頭を包んでいた覆い」も発見します。先に着いた弟子も、この発見を分かち合います。
亜麻布や頭の覆いが置かれているということは、主が復活されたことのしるしです。主が生きておられることのしるしです。主は、墓にはおられないのです。復活して、新たな歩みを始めておられるのです。マリアを始めとする弟子たちに、ともに、新たな歩みを始めるように招いておられるのです。弟子たちは、この時、「まだ理解していなかった」のです。だからこそ、理解するために、歩み始めたのです。
「キリストと共に復活させられ」るということは、一回限りの出来事ではありません。繰り返される出来事です。復活された主との歩みは、新たにされ続けるのです。特に、50日間続く復活祭は、新たな生き方を始める時なのです。マグダラのマリアのように、復活された主が、今までおられたところにおられないことに気づく時なのです。二人の弟子のように、主が探し求めて、歩み始める時なのです。共同体として、ともに、新たな歩みを始める時なのです。復活祭は、私たち共同体が、「キリストと共に復活させられ」る時なのです。
復活の主を探し求めた三人の弟子は、復活の主に出会うことになります。昨夜読まれた、マタイ福音書と同じく、主は、まず、女性の弟子であるマグダラのマリアに現れ、復活の福音を他の弟子たちに伝えるよう命じられます。こうした福音の分かち合いがあったからこそ、今日の第一朗読が伝えているように、ペトロは、主の復活の力強い証しをすることができました。ペトロの証しする姿こそ、「キリストと共に復活させられた」者の姿です。
世界中で今、たくさん人が、洗礼を受けています。復活のキリストとともに、新たな歩みを始めています。共同体とともに、復活のいのちを生き始めています。この、新たないのちに満ちた歩みを、ともに歩んで行きましょう。そして、「キリストとともに復活させられ」るという体験を分かち合いましょう。必ずしも、ペトロのように、言葉で表現する必要はありません。毎日の生き方で証しして生きましょう。私たちの生きている姿が、復活されたキリストが生きている姿を表すことができますように。復活の主に、心を込めて、願い求めましょう。
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一場 修
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