7月2日「年間第13主日」の朗読聖書と説教
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- Jun 28, 2023
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7月2日「年間第13主日」の朗読聖書と説教
一場神父から7月2日「年間第13主日」の朗読聖書と説教が届きましたので掲載します
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小教区窓口の皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
7月2日「年間第13主日」の朗読聖書と説教をお送り致します。
「ことばの祭儀」は、7月1日(土)午後7時に公開予定です。よろしくお願い致します。
皆様のためにお祈りしています。
一場
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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〔7月2日/年間第13主日〕
【第一朗読/列王記下4・8-11、14-16a】
列王記
*4・8*
ある日、エリシャはシュネムに行った。そこに一人の裕福な婦人がいて、彼を引き止め、食事を勧めた。以来彼はそこを通るたびに、立ち寄って食事をするようになった。
*9*彼女は夫に言った。「いつもわたしたちのところにおいでになるあの方は、聖なる神の人であることが分かりました。*10*
あの方のために階上に壁で囲った小さな部屋を造り、寝台と机と椅子と燭台を備えましょう。おいでのときはそこに入っていただけます。」*11*
ある日、エリシャはそこに来て、その階上の部屋に入って横になった。*14*
エリシャは、「彼女のために何をすればよいのだろうか」と言うので、従者ゲハジは、「彼女には子供がなく、夫は年を取っています」と答えた。*15*
そこでエリシャは彼女を呼ぶように命じた。ゲハジが呼びに行ったので、彼女は来て入り口に立った。*16*
エリシャは、「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱いている」と告げた。
【答唱詩編/詩編89・2+3、16+17、18+19】
神のいつくしみをとこしえにうたい、主のまことを代々に告げよう。
詩編89
*89・2*神よ、あなたのいつくしみをとこしえにうたい、
あなたのまことを代々に告げよう。
*3*そのいつくしみは変わることなく、
そのまことは天に基づく。
*16*神よ、あなたの輝きを知り、
その光の中を歩む民は幸せ。
*17*あなたの名をいつも喜び、
あなたの正義によって高くあげられる。
*18*あなたは私たちの力と栄光、
その恵みで私たちは高くあげられる。
*19*私たちの盾は神のもの、
私たちの王は、イスラエルの聖なるかたのもの。
【第二朗読/ローマ6・3-4、8-11】使徒パウロのローマの教会への手紙
皆さん、*6・3*
あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。*4*
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
*8*わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。*9*
そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。*10*
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。*11*
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
【福音朗読/マタイ10・37-42】
アレルヤ、アレルヤ。あなたがたは選ばれた聖なる祭司の民。やみから光へ招き入れられた偉大なわざを告げ知らせよ。アレルヤ、アレルヤ。
マタイによる福音
その時、イエスは使徒たちに言われた。*10・37*
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。*38*
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。*39*
自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
*40*あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。*41*
預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。*42*
はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
【説教】
私たちは今日、「自分の十字架を担って」、主イエスとともに歩むよう励まされています。
「十字架」、それは、誰かのために苦しみ、自分のいのちをささげることです。主イエスは、今も、すべてのいのちのために苦しんでおられます。ご自分のいのちをささげ続けておられます。主は、今、この瞬間にも、十字架を担っておられるのです。そして、主の弟子である私たちは、主とともに、十字架を担うよう、励まされているのです。十字架とは、苦しみをともにすることなのです。ですから、「自分の十字架を担」うとは、自分の苦しみだけを担うということではありません。自分一人で苦しむということではありません。まわりの人の苦しみを、自分の苦しみとして担うということです。自分の苦しみを、まわりの人に担ってもらえるということです。私たちはそれぞれに、別個の十字架を与えられていて、それを担うのではないのです。主イエスとともに、すべてのいのちとともに、一つの十字架を担うのです。一つの十字架を、自分の十字架として担うのです。自分の十字架を、すべてのいのちに担ってもらうのです。
私たちは、つながり合っている世界に生きています。世界は一つです。世界が一つになっているのだから、苦しみもともに担うべきです。しかし、現実は、苦しみの押しつけ合いになっています。押しつけ合いではなく、貧しい生活を強いられている多くの人に、一方的に苦しみが押しつけられていると言ったほうが正確かもしれません。苦しみをともにすることを避け、自分だけが苦しみのない生活をしようとすること。インターネットなどで、世界中で起こっていることをすぐに知ることができるのに、まわりの人の苦しみに関心を持とうとしないこと。苦しみをともにしないどころか、他者の苦しみを利用して金儲けをすること。自分の贅沢な生活のために、すべてのいのちのための資源や食糧を独占し、浪費すること。そんな生き方について、主イエスは、はっきりと言っておられます。「自分の命を得ようとする者は、それを失〔う。〕」自分の命のことしか考えない者は、ともに生きることができないのです。ともに生きることができない者、苦しみをともにすることができない者は、生きているとは言えないのです。
私たちは、まわりの人のために生きるため、神からいのちを与えられています。まわりの人といのちを分かち合うために、生きています。主イエスによれば、「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人」こそが、いのちを分かち合う人なのです。苦しんでいる人のそばにいて、その苦しみをともにし、生きる力を分かち合う人なのです。分かち合うことで、いのちが豊かになっていく人なのです。そして、主は言われます。「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」主のために、主が大切にされている苦しんでいる人のために、自分のいのちをささげる。そのささげることこそが、本当に生きるということになるのです。いのちをささげた後で、いのちを得るのではないのです。いのちをささげている、まさにその時、生きるていることになるのです。
キリスト信者は、いのちをささげながら生きるために、「洗礼」という恵みを与えられています。使徒パウロは、次のように述べています。「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。」キリストに結ばれるということは、キリストとともに生きるということです。キリストとともに生きるということは、キリストとともに、自分のいのちをささげるということなのです。キリストとともにいのちをささげることで、いのちが新たになり、豊かになっていくという恵みが、洗礼なのです。
私たちは、実際に、日々十字架を担って歩んでいます。これからも、この十字架を担って、キリストとともに歩んでいきたいと思います。共同体として、互いに感謝しながら、歩んでいきたいと思います。
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一場 修
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