8月20日「年間第20主日」の朗読聖書と説教
- kiotanblock
- Aug 16, 2023
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8月20日「年間第20主日」の朗読聖書と説教
一場神父から8月20日「年間第20主日」の朗読聖書と説教が届きましたので掲載します。
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小教区窓口の皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
8月20日「年間第20主日」の朗読聖書と説教をお送り致します。
「ことばの祭儀」は、8月19日(土)午後7時に公開予定です。
よろしくお願い致します。
まだまだ暑い日が続きます。ご自愛ください。皆様のためにお祈りしています。一場
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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〔8月20日/年間第20主日〕
【第一朗読/イザヤ56・1、6-7】イザヤの預言
*56・1*主はこう言われる。
正義を守り、恵みの業を行え。
わたしの救いが実現し、
わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
*6*主のもとに集って来た異邦人が主に仕え、
主の名を愛し、その僕となり安息日を守り、
それを汚すことなくわたしの契約を固く守るなら、
*7*わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。
彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら
わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
【答唱詩編/詩編67・2+3、4+5、7+8】
神のみ旨を行うことは、わたしの心の喜び。
詩編67
*67・2*神よ、あわれみと祝福をわたしたちに。
あなたの顔の光をわたしたちの上に照らしてください。
*3*あなたのわざが世界に知られ、
救いがすべての国に知られるように。
*4*諸国の民はあなたをたたえ、
すべての民はあなたを賛美せよ。
*5*すべての国は喜び歌え。
あなたは民を正しくさばき、諸国の民を導かれる。
*7*地は豊かに実り、
神はわたしたちを祝福された。
*8*地の果てに至るまで神をおそれ敬え。
神はわたしたちを祝福された。
【第二朗読/ローマ11・13-15、29-32】使徒パウロのローマの教会への手紙
皆さん、*11・13*あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。*14*
何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。*15*
もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
*29*神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。*30*あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。
*31*それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。*32*
神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
【福音朗読/マタイ15・21-28】
アレルヤ、アレルヤ。イエスは神の国の福音を告げ知らせ、民の病いをいやされた。アレルヤ、アレルヤ。
マタイによる福音
そのとき、*15・21*イエスは、ティルスとシドンの地方に行かれた。*22*
すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。*23*
しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」*24*
イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。*25*
しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。*26*
イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、*27*
女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」*28*
そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
【説教】
主イエスの宣教の旅は、今週も続きます。私たちも、主とともに旅を続けていきます。そして、旅をする者には、新たな出会いがもたらされます。今日の福音は、この新たな出会いの物語です。
イエスは、ガリラヤ地方出身のユダヤ人です。ユダヤ人であるイエスが、ユダヤ人でない人たちの土地を訪れます。そこで、「カナンの女」と出会います。ユダヤ人男性であるイエスが、ユダヤ人でない女性と出会います。
カナン人女性は、イエスが、ユダヤ人であり、救い主であることを知っています。だから、「娘の病気」をいやしてほしいと、大声で懇願します。イエスは、何も答えません。この沈黙は、何を意味するのでしょうか。女性が話す言葉が理解できないのでしょうか。言葉は理解できても、どうしたらよいのか分からないのでしょうか。それとも、この女性の言っていることを疑っているのでしょうか。出会いは、多くの場合、無理解、誤解、当惑、困惑、躊躇、疑い、不信といったことにつながります。
そして、イエスは、弟子たちに促されて、女性を追い払おうとします。女性はあきらめずに、懇願し続けます。そんな女性に、イエスは答えます。「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」と。ユダヤ人にとって、犬は、不浄な動物と見なされていました。嫌いな人を、犬と呼ぶ習慣がありました。だから、この言葉は、次のような意味になります。「自分の身内、仲間だけを大切にしたい。知らない人、自分と違う人に関わりたくない。きたない。近づかないでほしい。」
イエスは、私たちの主です。すべての人を救ってくださる神です。ですから、私たちは、こうしたイエスの考え、態度、言葉を理解することができません。しかし、私たち人間は、新たな出会いの時、こうような差別的な考えを持つことが多くないでしょうか。排斥や排除の態度を取り、相手を傷つける言葉を口にすることが多くないでしょうか。その意味で、主イエスは、私たち人間の考え、態度、言葉を示しておられるのです。
しかし、カナン人の女性は、この新たな出会いを交わりへと深めていきます。女性は、イエスに答えます。「子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」「主人の食卓」とは、主イエスの食卓です。「食卓から落ちるパン屑はいただく」とは、主の食卓の交わりに加わることです。パン屑そのものが、大切なのではありません。パン屑を分かち合うことで、交わりができることが大切なのです。女性は、主イエスと弟子たちの交わりに加わると宣言します。懇願ではありません。主の食卓の交わりが開かれているという信仰を宣言するのです。この信仰宣言により、主の食卓が、開かれた交わり、誰でも加わることができる交わりへと変化します。私たちは皆、神の子です。私たちは皆、神に愛されている子犬です。
主イエスは、カナン人の女性を祝福して、「あなたの信仰は立派だ」と宣言されます。女性が開かれた交わりを信じて、力強く信仰宣言する時、女性の「娘の病気はいやされ」ます。娘がいやさるだけでなく、交わりもいやされます。閉ざされかかった交わりが、大きく開かれます。死にかかった交わりが、生き返るだけでなく、以前にもまして、生き生きとした交わりに変わります。いやされるのは、私たちなのです。
私たちも今日、カナン人の女性の信仰宣言に加わるように招かれています。新たな出会いを重ねることによって、私たちの交わりを広げていくように招かれています。この招きに応えて、新たな出会いを続けていきましょう。私たちの交わりを閉ざすことなく、開かれた交わりとして、広げ、深めていきましょう。分断や対立によって傷ついた交わりは、福音によっていやされます。この福音の力を信じて、宣教の旅を続けていきましょう。
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一場 修
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