9月15日「年間第24主日」の聖書朗読と説教
- kiotanblock
- Sep 11, 2024
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9月15日「年間第24主日」の聖書朗読と説教
一場神父から上記説教等が届きましたので掲載します。
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小教区窓口の皆様
いつもお世話になり、ありがとうございます。
9月15日「年間第24主日」の聖書朗読と説教をお送り致します。「ことばの祭儀」は、15日(日)午前7時に公開予定です。
よろしくお願い致します。まだまだ暑い日が続きます。どうぞご自愛ください。皆様のために、いつもお祈りしています。
一場
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【一場神父のyoutubeチャンネル】(ミサ及び講座)
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〔9月15日/年間第24主日〕
【第一朗読/イザヤ50・5-9a】
(イザヤの預言)
*50・5*主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
*6*打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
*7*主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。
*8*わたしの正しさを認める方は近くいます。
誰がわたしと共に争ってくれるのかわれわれは共に立とう。
誰がわたしを訴えるのかわたしに向かって来るがよい。
*9a*見よ、主なる神が助けてくださる。
誰がわたしを罪に定めえよう。
【答唱詩編/詩編116・1+2+3+4、5+6a+7b、8ab+9】
荒れ地のかわき果てた土のように、神よ、わたしはあなたを慕う。
(詩編116)
*116・1*わたしは神を愛する。*2*神はわたしの声を聞き、
日々、祈り求めるわたしに心を留めてくださる。
*3*死とその苦しみが迫り、苦悩の中にあったとき、
わたしは神の名を求めて叫んだ。*4*「神よ、わたしを助けてください。」
*5*神は恵みといつくしみに満ち、
わたしの神はあわれみ深い。
*6a*神は素朴な人の支え、
*7b*神は恵みを注いでくださった。
*8ab*神はわたしを死から救い、
足がつまずかないように支えられた。
*9*わたしは神の前を歩む、
神に生きる人々の中で。
【第二朗読/ヤコブ2・14-18】
(使徒ヤコブの手紙)
*2・14*
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。
*15*もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、*16*
あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
*17*信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
*18*
しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
【福音朗読/マルコ8・27-35】
アレルヤ、アレルヤ。わたしには主の十字架のほかに誇るものはない。世はわたしにとって、わたしも世にとって十字架に付けられている。アレルヤ、アレルヤ。
(マルコによる福音)
そのとき、*8・27*
イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
*28*弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」*29*
そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」*30*
するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
*31*
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
*32*しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。*33*
イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」*34*
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。*35*
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
[説教]
福音記者マルコは、今日、主キリストに呼び集められている私たちに、次のように告げています。私たちが信じているキリストは、「多くの苦しみを受け、…排斥されて殺され、三日の後に復活された」と。そして、私たちは今、このキリストに従うように招かれています。
私たちはなぜ、主キリストに従うことを望んでいるのでしょうか。答えは明らかです。救われるためです。いのちを得るためです。生きるためです。本当に生きることを望んでいる私たちは、今日、キリストから招きを受けています。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という招きです。
自分が救われさえすれば、まわりの人はどうなってもいい。自分の国がうまくいけば、まわりの国はどうなってもいい。今の便利で快適な生活が続くならば、まわりのいのち、まわりの自然が破壊されてもかまわない。今さえよければ、未来に何が起こっても、私には関係ない。こうした、自己中心的な思いが、今の世界を支配しています。まわりのいのちを犠牲にする生き方を、自分が負うべき十字をまわりに押しつける生き方をせざるを得ない状況が、この地球を覆っています。私たちは、救いを得るために、しれつな競争しなければならないと思い込まされています。救われないいのちがあっても仕方がないと思い込まされています。もし神がいるなら、神がなんとかすれば良い。そんな責任転嫁がなされています。キリストがいるなら、今のままで、皆を救うべきだという責任転嫁です。
主キリストは、人間の自己中心的な思いを叶える方ではありません。人間の肥大化する欲望をそのままにしておく方ではありません。自己中心的な思いは、私たちの中にいのちの傷つけ合いをもたらします。肥大化していく欲望は、この地球を破壊していきます。キリストは、すべてのいのちを救ってくださる方です。そのために、互いに大切にし合いながら、ともに生きていく道を示してくださる方です。神から与えられた良いものを分かち合いながら、日々の苦しみや悲しみも分かち合いながら、ともに救われる道を示してくださる方です。私たちは、キリストが示される道を歩んでいくことで、キリストとともに歩み続けることで、救われます。自分だけが救われる道はないのです。みんながともに救われる道しかないのです。
救いは、神から与えられる恵みです。そして、みんなで救われることは、救いの恵みを分かち合うことは、人間の責任なのです。主キリストは、みんなが救われる道を、すでに、十字架上で示してくださいました。救いの道を知らないと言うことは、もうできないのです。みんなが救われる道、それは、「
自分を捨て、自分の十字架を背負って」、歩んでいく道なのです。それしかないのです。そして、みんなが救われない限り、誰にも救いは訪れないのです。
今日は、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」です。この日のための教皇メッセージでは、「神は決してご自分の子らを見捨てません」と宣言されています。いのちを、役に立つかどうかという基準で選別し、役に立たないと判断されたいのちが、特に齢を重ねたいのちが捨てられる。こうしたことが、今の世界で起こっています。まわりのいのちのために十字架を背負うことが、無駄なことだとされています。そして、高齢という豊かな、かけがえのないいのちに、当然のことのように、十字架が押しつけられています。私たち、キリストに従う者は、こうした状況を認めるわけにはいきません。いのちは選別されるものでなく、無条件に大切にされるものです。いのちに、無駄はありません。いのちは、みんなで生きるもの、ともに生きるものです。高齢の人がいて、若い人がいる。そして、互いを必要としながら、大切にし合いながら、ともに生きていく。このことこそが、いのちであると言うことができます。
そして、私たちは今月、「すべてのいのちを守るための月間」を過ごしています。いのちを分割することはできません。私たちは、この地球という一つの家で、いのちの交わりを生きています。いのちを、みんなが一つになって生きています。高齢のいのちと若いいのちが、一つの豊かないのちとなって、ともに生きています。このいのちの交わりを、いのちの分かち合いを、時間と空間を超えたいのちのつながりを、喜びのうちに生きていきましょう。いのちの喜びを証しする「希望の巡礼者」として、主キリストに従って歩んでいきましょう。
※第4回「祖父母と高齢者のための世界祈願日」教皇メッセージ 2024年9月15日 | カトリック中央協議会↓
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